中学古文は主語を意識しなくてもなんとなく解けてしまいます。
古文単語を覚えることが目標ではないので、難しい言い回しには(注)がついていたり、中学生が読むには難しい文章には現代語訳とともに出題されることが多いです。
だがしかし、
現代語訳を読んでも意味が分からない問題は切実です。
私たちが日常で使っている言葉よりさらに主語を省略して現代語訳をしてくれています。補足してくれていたとしても主語は分かっているものとして、書かれているため主語に対する感度は求められます。
先週でしたか、中3に「古文が苦手なんです」と相談を受けたので、あらゆる古文の文章に主語を補足しながら読んでみる練習を始めました。
ここから話が大きく変わって、
添削しながら、いつも思うのですが、、、、
古文に触れてますと、(基本的には同じことの繰り返しという)日々のつまらない生活に忘れかけている大切なものを思い出させてくれます。
笑
幸せを探すのではなく、見たものを幸せだと感じる心を持つんだ。
どこの誰が言ったのか覚えてませんが、
古文を読んでいると↑↑の言葉を定期的に思い出します。
春に道ばたにタンポポを見つけるとやっぱりうれしいですよね。
中3が解いていた問題↑↑の原文
五月ついたちごろ、つま近き花橘の、いと白く散りたるをながめて、
更科日記
時ならずふる雪かとぞながめまし花たちばなの薫らざりせば
現代語訳
五月のはじめ頃、軒下の近くに咲いている「花橘」の花びらが、白く散っているのを眺めて、
花橘の良い香りがしなければ、季節外れに降る雪だと思って見るところだった。
本来は長編小説ですから、まったく違った意味になると思うのですが、問題になっているところだけを見ると、
桜が咲くころのポカポカした春に、散歩してみて、ふと土筆やタンポポを見つけたときの高揚感と同じような気分になります笑
自然をめでる心でなくても良いのですが、
みたものに幸せを感じれる心があると良いですね。
なにかと忙しい高校生や中学生ですから、
日常のふとした瞬間に幸せを感じる心を併せ持ってほしいと思いながら、
点数をあげることとはまったく関係ないコメントもラインで返信する私でした。
そういう心の持ちようが「スマホ依存」の解決策だと思ったりするのです。
さて、
今から音読聞くタイム!!