「教養は幸運なときには飾りとなるが,不運の中にあっては命綱となる」
by アリストテレス
2025年度予定 概要
次回 4/13(日)【映画:ネバーエンディングストーリー】

18:30~ 映画視聴
21:00~ Zoom
ネタバレなんて怖くない。
むしろ、何度見ても新しい発見がある。
それが映画。
2025年度年間スケジュール
4月13日(日) ネバーエンディング・ストーリー
5月11日(日)
6月 8日(日)
7月27日(日)
8月10日(日)
9月 7日(日)
10月 5日(日)
11月 9日(日)
12月28日(日)
1月 3日(土)
2月 8日(日)
概要 Zoom参加
1週間前までに映画のタイトルをお伝えします。
・アマゾンプライム、TUTAYAなどで映画を見てください。
・なるべく映画を見た直後、専用の用紙に感想文(自由)を書いて提出してください。
アマゾンプライムやそのほかサブスクを使って映画を見れない人は開催日程の18:30にWillbe集合して映画を一緒にいて感想を書きましょう。
自宅からZoom参加(20:45頃~)もOKです。参加者が感想を書く時間によって授業の開始時間が前後いたします。感想文提出してくれた子にZoomIDなどを当日お伝えします。
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映画の感想用紙はこちら
事前にお伝えいただければ、塾で印刷致します。
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18:30 集合/映画視聴開始
20:30 感想記入
21:00 授業開始
(授業はZoomで視聴可能)
(18:30より映画を観ている参加者の感想を書く時間によって開始時間は前後いたします。Zoom参加者は早めに参加して待機をお願いいたします。)
22:00 解散
過去 扱った映画と予定
3月24日(日) 犬神家の一族2006
4月 7日(日) レオン
5月12日(日) スクール・オブ・ロック
6月 9日(日) 最高の人生の見つけ方
7月28日(日) タイタンズを忘れない
8月11日(日) ビルマの竪琴
9月 8日(日) ARRIVAL
~メッセージ~
10月 6日(日) モダンタイムス
11月10日(日) ゴジラ-1.0
12月22日(日) クリスマス-キャロル
1月 3日(金) 陽のあたる教室
2月 2日(日) かがみの孤城
4月「ヴィンセントが教えてこれたこと」
5月「ギフテッド」
6月「風立ちぬ」
7月「マンマミーア」
8月「最強の2人」
9月「スタンド・バイ・ミー」
10月「プラダを着た悪魔」
11月「ラブ・アクチュアリー」
12月「Always 3丁目の夕日」
1月「天使にラブソングを」
2月「トゥルーマン・ショー」
7月「ライフイズビューティフル」
8月「ショーシャンクの空に」
「はじまりの歌」
9月「きっとうまくいく」
12月「シザーハンズ」
1月「ライオン」
3月「グッドウィル・ハンティング」
なぜ映画で授業なのか?
国語のセンスを磨く授業
所謂「勉強」でも学力の向上は望めるのですが、所謂「勉強」を効率よく進めようと思った時に助けてくれるのが「教養=無駄な知識」です。
共通テスト現代文。
はっきり申し上げて「昭和」という時代をなんとなく詳しく知っていないと昭和の人の気持ちが分からないのではないかと思う文書や問題(選択肢)が散見されます。
もちろん、課外活動を通して「社会」を”感じる”ような活動はあるのですが、すべての「社会」を体験することは出来ません。本や漫画だとコスパがよいのです。
「個別最適化」という言葉の元、アルゴリズムに作られた「興味関心」を見せられていては「新しいもの」に出会う機会はへるでしょう。こうした原体験や読書経験は、かならず興味関心に役に立ちます。
無駄な知識めいたことを「国語のセンス」と言います。もちろん、解答や読み方のポイントを習って勉強して点数を上げても良いのですが、国語が苦手だと気が付くときは、国語の点数が自分事になるとき、つまりそれは受験直前期なのです。さすがに、受験期に数学同様国語の解法技術をすべて身につけることは難しいのです。
英数国
国語の心配を一番後にしがちな私達です。
技術の前に、分からないという前に、論説文や映画と向き合う姿勢
国語の指導は大雑把に2つのことを教えます。「本文を読む技術」「解答の技術」です。
本文を読む技術は、接続詞などに注目し文章の論理構造を追いかける事であったり、小説ならば場面転換や「だれが、どうする、なにを、どこで、いつ」について意識していくことです。
解答の技術とは、出題者が答えをひとつに絞るために設問に課している条件です。「20文字以内で答えよ」だとか「選択肢の内容」です。この部分が「受験としての国語」として取りざたされる理由です。「筆者の意図にそぐわない」「筆者でも国語の問題に正解できない」だとかそういう議論になりがちな部分です。しかし、筆者が無意識であっても「条件を課せば答えは1つに定まる」のです。(とはいえ、難関大学の国語は、この領域をこえています。高校入試や共通テストにといては有効な技術です。)
国語にも数学的な訓練は必要です。数学の問題を解こうとするときに「なぜ」「どうして」と考えながら取り組む人は多いと思われます。国語も同様です。国語が苦手だという前に、キチンと本文と向き合う習慣はつけてあげたいと思います。
数学同様に丁寧に読もうという姿勢があれば、その姿勢を継続すれば国語のセンスは磨かれてまいります。丁寧に読み解く姿勢を映画を通して身につけて欲しいと思っています。本文を理解したのちに、解答の技術が備われば良いのです。または「本文の内容」「解答の技術」のいずれも八方塞がりな状態で、国語の授業を受けても生産性が低いと言えるのかもしれません。どうしても時間がとれない国語だからこそ、月に1回「映画を向き合う」「本文に向き合う」ことを通して、つまり、数学のように「何故」を大切にしながら丁寧に言葉にしていくことで、内容理解する技術を身につけて欲しいと思うのです。
共通テストや大学受験数学においてかなり高度な計算スピードが求められます。同様に国語や英語において「速読能力」は求められます。しかし、速読は「丁寧に読む」「丁寧に計算する」訓練の後に、高速に読む練習が出来ます。土台のない「読む速さ」は読み飛ばしにすぎません。
映画の授業は、
丁寧に読む訓練、
丁寧に読む姿勢、
細部にこだわる姿勢、
を身につけます。
なぜ国語の点数が上がらないのか??
数学ほど演習しないからです。
インターネット。
30代~40代にしてみれば、インターネットとは「文字情報」です。しかし、10代~20代にしてみればインターネットとは「動画」です。
文字や動画の善悪はおいておいて、大学入試が求めているのは「文字情報を読み解く能力」です。
推薦入試が流行っているからこその映画
推薦入試とは、本来、興味関心のマッチングです。
就職活動の如くマッチング技術(相手が喜ぶ志望理由なども大切ですが)のみによって合格していては本末転倒です。
知らないことは考えられない
将来の夢。
今知っている「小さな小さな世界」から選ばざるを得ないのが現状です。ユーチューバーしか知らなければ将来の夢はユーチューバーになりたいかどうかの選択にすぎません。故に、世界を知れば知るほど、夢が変わって当たり前なのです。
だから、「今やりたいこと」が10年後のやりたいことと同じであることは多くないのです。
広い世界をどんどん知って欲しい。
赤穂が狭いんだと言いたいんじゃない。
赤穂も広いと感じるためにも
いろんなことに触れて欲しいのです。
いろんなことに触れるには、中学生/高校生は忙しすぎる。
故に、自分と向き合う時間をとる必要があるのです。
自論ですが、「将来の夢」という言い方は適切ではなく「社会とどう関わるのかを決める」が適切な言い方だと思う。何を大切にするのかなど社会との関わり方を決めれば「職業」は大事でもない気が致します。
もちろん、職業が将来の夢であってもよいのです。
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人と社会を知らずして将来の夢は決まらない
人と社会を知らずして将来の夢は決まらない。なぜなら人は「社会性」なしには存在しえない動物だからです。映画を見ることも、様々な文化や人を知るきっかけとなります。
映画をみることも、「世界」を知るきっかけとなります。世界は必ずしもグローバルを意味しません。全員が「世界に通用するグローバル人材」になる必要がないのです。赤穂も「世界」なのです。
「映画で学ぶ知の技法」は、映画を楽しむだけではなく、その文化的背景や人間分析を行う授業です。
学ぶ姿勢としての映画
勉強する意味だとか、頑張る価値だとか、そんなものは大人のお説教で得るものではなく、自ら感じに行くものです。賢い子がいるとするならば「自ら学ぶ」姿勢を持つ人のことです。この世の中の全てが先生となりえます。今回の先生が映画というだけの話です。
興味関心??
自分に何が向いてる、自分の興味って何?
狭い世界の中で考えるなんて不毛です。
確かに、知れば知るほど迷うけれど、知れば知るほど自分の中の1本の線が見えてきます。自分なりのストーリーを紡ぐことが出来ます。それは勉強だけでは見えない世界線だと思われています。
そんなわけがないのです。
「映画で学ぶ知の技法」
進学個別指導塾Willbeが赤穂の皆様にお届けする「映画で学ぶ知の技法」
まずは感じにおいでよ!
先生とは何か?
身の回りのすべてのモノが先生です。先生が「そこ」に存在しているわけではありません。あなたが「モヤモヤ」としている時に先生が存在するのです。あなたがモヤモヤとしたものを言葉にしようとして、はじめて先生が存在します。私はまだあなた達の先生ではないのかもしれないのです。
だから、心の中に「もやもや」ってしたものを感じて帰ってほしいんですよね。
もやもやっとしたものを解放してあげるのが(正しいものを教えるということではなく)大人の役目なんだろうと思うのです。大人は先に生まれていろんなことを経験しているだけの存在です。オモロイと思う子にはとことん「もやもや」っとしたものを感じてほしいんです。勉強に価値があるとするならば「もやもや」っとしたものを言葉にしたりすることなんだと思ってます。
確かに、所謂「勉強」でもそういうものは感じることが出来るのですが、、、、「あ。。。なんか勉強っておもろい」って思ったときに「もやもや」を感じることが出来れば最高じゃないですか???
「もやもや」を持たずに勉強しても良いのですが、やはり小中のころに「もやもや」を持ってますと「大学」の価値が倍増すると思うのです。映画の授業は大学授業の先取りです。
大学へ行き「もやもや」に出会っても良いのですが、文系不要論なんてあったりしますが、文系も理系も元来「教養」などというものは無駄なものであります。確かに「理系の技術」の「使い方」「価値づけ」「目的」を文系が行う。技術の革新が不幸を招く、だから、文系が「哲学」するなんて言い方もできちゃいますが、、、社会と学問がつながる瞬間。
「えーから覚えろといわれたこと」がつながる瞬間。
「えーから覚えろと言われたこと」をすでに知っている瞬間。
それが社会と学問がつながる瞬間です。
具体と抽象が一致する瞬間です。
だから、、、
子どもたちには、、、、
いまは「え~から学べ!!」とか言いいます。
(「だったらオモロイ授業しろ」なんて反論も聞こえてきそう。)
「知」は強制されるものではない。
だから強制はしない。
テスト勉強はちょっと強制します笑。
「読書感想文」というテストでは、出来ない事
映画の授業には、模範解答があるわけではありません。
あなたの心を解放した感想文を書いてくれればそれでよいと思います。本当に素直に感じたことを書いてください。その感想から授業内容がきまります。
もやもやっとしたもの、あるいは素直な感想から、「こういう見方もあるよ」って提案してみます。
「正しい答え」を提示したいのではありません。「映画はこういう風に見なければならない」なんてことを言いたいのではありません。
映画の解像度をあげるというか、ストーリーを追いかける以上の面白さとか、あなた達の思考を一歩先に進めてみたいと思うのです。(授業するのは私ではありません笑)
なぜなら、先生という存在はそういうものにすぎないからです。
自分の言葉を持つ大切さ
映画を観て、感想書いて、そのうえで授業を行う。
(授業をするのは私ではありません)
ただそれだけなのですが、生徒達に感じて欲しいことはたくさんあり過ぎて、分かりやすく教えてくれと言われてもなかなか困ります。
1つは、自分の言葉を持ってほしい。のです。
私自身もそうなのですが、映画や小説やテスト問題や小論文でもなんでも、本や映画や体験授業を終えると、何か正解があるかの如くYouTubeやgoogleや友達同士で、答えのようなものを探してしまいます。
感想ってこうあるべきだ
こう解釈するべきだ
この伏線は回収するべきだ
そういう場面での中学生/高校生の気持ちは痛いほど分かるのです。スポーツでもなんでも良いです。
あの試合がどう
あの選手のあの技術がどうなどなど
ですが、他人の意見や言葉を脳内停止でそのままコピー&ペーストしても自分の言葉は育たないのです。引用とコピー&ペーストは違います。
見たものを細かく細分化する努力はして欲しいのです。そして、キチンと逃げずに言葉にしてみて欲しいのです。
そこから、答え合わせのようなものは行っても良いと思いますし、確かに、他人の意見や言葉を聞いて、自分の文章能力や表現力が上がるということはあるのですが、答えを探す前に、自分で自分の言葉を見つけようとして見て欲しいです。
だから、
私に、「僕の感想どうですか?」と聞かれても、
評価したいわけでもないので、
「いいやん」
としか答えないこともあるのです笑映画解説のユーチューバーや、
本の書評家になってほしいわけでもないので、
あなたがドンピシャに刺さったことを書けばOKです。
背伸びなどいらないのです。
等身大の感想であることが大事です。
あとは言葉にしてみようとする訓練の問題です。
自分を大切にしなさい。
自分の言葉を大切にしなさい。
自分の名前を大切にしなさい。
2025年4月に行った授業「ネバーエンディングストーリー」の重要なテーマの1つです。古文や漢文を読んでいても、現代(例えば、ジブリの「千と千尋」)においても「名前」というものは重要です。
人が「名前」を付ける時は、特別な意味を持ちます。特別な存在でなければ名前をつけません。将来への希望を感じる時に、人は何かに名前をつけます。小さな子たちが「よく分からないもの」に名前をつけるのは、彼らにとって「よく分からないモノ」が特別な存在だからなのでしょう。
逆に言えば、自分が特別な存在?(ちょっと違うな)(個性を認める)(自分をよくもわるくも受け入れる時)には、自分の想いや感情を言葉にする必要があると私は思っています。他人に分かってもらおうと思うならば自分で言葉を紡いでいくしかありません。他人に分かってもらう必要がなくても言葉にすることは大事です。そうでなければ「千とチヒロ」という映画はヒットしないのです。
保護者様が、わが子の名前をつけるがごとく、自分自身の言葉を大切にして欲しいと思うのです。
それこそが、今も昔も普遍的に変わらない「大切な能力」なのです。
決してAIではありません。(いやAI大事ですよ笑)
2023 生徒の感想抜粋
トゥルーマン・ショー
~略~
番組を作ったクリストフは、トゥルーマンのことをまるで我が子を見るように語っていたが、そうだとしても過保護すぎるように思いました。(トゥルーマンのことを)ヒーローと言っていたが、それは「誰に対しての」ヒーローなのだろうか。クリストフから見るヒーローであってトルゥーマンにその自覚はないし、テレビを見ている人がどう思っているのかは分からなかった。
この世界は、人々が楽しそうにテレビを見ていたから、きっとみんなの理想だったんだと思う。だから、(人権侵害とも思える)この番組自体は否定できない。
もし自分がトゥルーマンだったとしたら、精神が壊れて自〇していたと思います。この物語を作った人の心が心配になりました。
今、自分はトゥルーマンを映画の主人公としてしか見れないが、番組制作者の思惑な気がして少し悔しいです。結局いま自分が「トゥルーマン凄い」と思っているのもトゥルーマンが他人だからであり、物語の主人公だからにすぎない。主人公に本当の意味で同情するのは難しいと感じた。最後のシーンで警官が次の番組を探しているシーンで痛烈にそれを感じた。
現実社会においても嘘より真実の方が恐ろしい気がします。嘘やフィクションに囲まれている今が幸せなんだと思った。真実は自分自身が体験するしかないのだけれど、こんなテーマをフィクション映画で描いているのは皮肉な気がしました。
トゥルーマン・ショーと私たちの人生は全く同じだと思った。私たちは何も自分1人で判断をしているわけではない。この映画は、これまで築き上げられてきた(文化/常識/概念など)全てに逆らい判断して生きろっというメッセージのような気がした。
プラダを着た悪魔
「勝組人生」って結構残酷だなとおもいました。誰もがお金とか地位とか欲しいと思うと思うのですが、そのために「最愛の人」「友人」「努力している同僚」を失うというところが残酷だと思いました。
ミランダについて行くことや地位や大金を手に入れることが幸せではないと思うのですが、本当の幸せは何なんでしょうか?
少なくとも「自分の夢」をかなえることが幸せかもしれませんが、犠牲にする覚悟。。。
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「悔いが残らない方を自分で選べ」という言葉は、どちらかを選び、どちらかを犠牲にするということで、とても大変で、本当に正しい判断化は自分自身でも分からないので、どう判断して楽しく生活していけるのか分からなくなりました。
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「プラダを着た悪魔」はミランダの事ではなく、雑誌の読者やマスコミなのではないかと思いました。「主人公が仕方なかった」というセリフを度々言っており、決断の難しさや後悔しないなんて無理だといういうことを物語っていると思いました。
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私が努力できるということはすごくありがたいことだと思った。自分がやりたいことや受験の時、家族や他の人にたくさん努力が出来る環境を作ってもらっていたんだと思い、より一層やる気が出た。
何かに取り組もうとする時、まずは頑張る事が大事だけど、周囲との関係が問題になる。例えばマラソンで一緒に走ろうとして頑張るけど”友人を置いて行かないといけない時”があるのではないかと思った。その辺は気を付けようと思った。
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目的を明確に持って、そのために必死になれることがとてもありがたいことなんだと思った。
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風たちぬ
二郎にとって飛行機は「夢」であってとても大切なモノだというのが、二郎の夢の中の様子から伝わってきた。
しかし、ファンタジーや輝いた世界ばかりではなく「夢でもあり呪いでもある」と二郎が言っていたように、夢の中の様子も少しづつ変化していたように思う。
大好きな飛行機が戦争に使われ、仲間は誰も帰ってこなないという現実を二郎はどう思ったのだろうか?
最後のシーンを見る限り、
「生きる」と決断したことは分かった。
悲しいシーンなようで生きる決意が表れているシーンだと思った。
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表面だけをみると美しいシーンばかりでしたが、
悲しいシーン、けなげな部分、どうしようも出来ない深い部分などがつまっていて、具体的に頭に浮かんできてこれからの自分に大切なヒントをくれた気がする。
知識って大事だなと思った。
ものすごく奇麗な映画だと思った。
2022 夏 「映画で学ぶ知の技法」 生徒の感想抜粋
「始まる前は怖かった。名指しで意見を求められたらどうしよう、自習室なのに!と思っていた。
でも、講義はとても興味深く飽きずにずっと聴けそうだった。学校だと授業は興味が持てず聴いていられないのに!どんどん話してほしいと思った。
これは差別だ、差別は悪い、とその状況で本当に言えるのかという視点は全く持てていなかったことに気がついた。
竹山先生の前情報(簡単な映画の紹介)でステレオタイプに嵌っていたと思う。笑」
「自分で見た時の受け取り方と解説が結構違っていて、そういう見方もあるのか、と感じた。
自分の中では、幼い子に現実を知らせないように父が苦労する、優しさの物語と受け取っていた。成長した息子には少し 騙された感 があるのでは??それでも『人生は美しい』なんだから、すごいと思う。
色んな人物の異なった価値観が含まれていたと思う。それが良い映画ってことなのかも?」
今回の映画は、僕が普段見る映画とは少し種類が違ったけど、ここまで深く関係などを映画で考え直すことはあまり無かったので、新鮮で楽しかったです。
あと、音楽が好きなのかといわれると、確かにめっちゃ好きなんですけど、多分それは歌が小説と通じるものがあるからだと思います。
グレタと同じような生き方をしている人物が読んだ小説にいた気がするので、読み直して探してみます、ありがとうございました。
また、お願い致します
主人公(良い人)も完璧じゃないんだ。
いままで、創作物の主役をカッコいいと感じたら、そのままその人になりたいと思っていた。今回ならランチョーの頭の良さにばかり気が向いていて、それ以外のところには目が向いていなかった。
他人評価が必ずしも悪いわけではなく、考え方の問題だと気がついた。行き過ぎは良くない。学長が子どもの夢を決めつけていたのも他人評価に基づいて幸せを思えばこそ。それが分かると学長も悪人ではない。
振り返ると、定期テストなど他人評価を気にしていたことが分かった。恋愛の話で言うと、ランチョーは思わせぶり。よく分からない態度。その場で都合よく発言している。見ているときは意識していなかった…。
他の人の感想が聴けるのが楽しかった。同じ映画を観て同じ紙に書いているのに、目の付け所が違ってくることを面白く感じた。
ランチョーは前半と後半でなんか違うな、と思っていたが、授業を聴いてスッキリした。
親の良かれと思う気持ち・学長の想いにも気がつけた。学長の娘は、基本的に父が好きで、親の想いに気がついているからこそ苦しいのでは?ショーシャンクでも、最初から「主人公は無実」としか考えていなかったし、第一印象のままズルズルと行ってしまうところが自分にはあると思う。
インド仏教の話など、自分では辿り着けない視点を持てた。佐々井秀嶺さんは超おじいちゃんだった。(ランチョーの恋愛について)
私は鈍感なタイプかもしれません。ランチョーは自由でいいな、と素直に思っていました。
見ていて疑問に思いまいた。
なんで自分の素晴らしい才能を使おうとしないんだ!!
序盤、頭が悪そうなやつらとからんでいたし、最後、教授とハグしてまっとうに職に就くかと思えば、「女を見極める」だと??
もっと活かせよ。
自分の個性を!
言ってたん!!、友達もそれらしいこと。
「カルフォルニアではなく、シンクタンクに戻れ!!」と思いました。
どうでもいいですが、ただの「屁理屈野郎」から「女を見極めれる」までになって「良い面になったじゃね~か」と思いました。
どんどん自立していくのが普通にいいですね。
(授業を受けてみて)
人に言われたことだけをやり、言われた方向に進むのではなく、自分がやりたいことをやり、自分の方向に行こうと思いました。
といっても、、、、
「将来、何がしたいの?」とか聞かれても答えられないんですけど。。。。
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私は、この映画を見て、この主人公は、いい人にで巡り合って、これからいい人生になりそうだな~となんとなく思いました。
ウィルとベンチで2人で話している内容は、自分のことを人に語るときも、相手の事を知るときも大切なことだと思います。
本で読んだことをそのっま話すことは、誰でもできることだけど、それを自分の言葉というか、自分の話したいことを話すのは、意外と難しいかもしれません。
絵をウィルが何も知らずに見たときと、ベンチで聞いた話、その人の話を聞いた後では、たぶん、思うことが変わっていると思います。
もう1つ、私は、驚いたというか、私の思い通りというか、そんなところがありました。
それは他でもないラストシーンです。このまま教授が言っていたように働くのかなと思いつつ、あの女の人のところに「行かないかな~」「行ったら面白いのにな~」と思っていたら案の定行きましたね。
映画が進むとともに、主人公の顔がだんだん真剣になっていくのが、なんとなくわかりました。話していくうちに、自分のつらいところ、認めたくないところを、知る、自覚していく中で、自分にも思うことを言ってくれる友達や他人んがいたことに気づき明らかに変わったように思います。(何なのかは分からなかった)
でも、最後は、すごくよかったです。友達のくれた車をとばして、向かうところがすごく、すがすがしく感じました。