不器用な子は、可哀そう。ホントか?

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不器用な子は「可哀そうだ」と思うことがある。

・不器用だから苦労するな。
・不器用だからよく怒られているよな。

といったことではない。

不器用だから可哀そうだという意味ではない。

昔に比べて、確かに、今は優しい社会だと思う。

優しすぎるのである。





一昔前までなら、

不器用な子はいじめの対象だっただろう。

からかわれる対象だっただろう。





しかし、

今は「からかう」「いじめる」ということは許されない。

もちろん、からかいやいじめは無い方が、良いに決まっている。

そうあるべきだ。




今は、助け合うのである。

しかし、助け合い過ぎるのである。

助けすぎるのである。





私が可哀そうだというのは、

助け合い過ぎるという意味である。






不器用なこと自体は、かわいそうでもなんでもない。

不器用なこと自体は、悪い事でもないのだ。

こういうと数字でどこかに境界線をつくりたくなるし、

程度問題もあるから、

面倒なのだけれど





つまり、

優しい社会であるが故に、

周囲の友達同士、

周囲の大人が先回りして

助けすぎるのである。





助けることは美しい。

だが、助け合いのはずが、

「助ける側」
「助けられる側」

という構図を生み出してしまう。





助けられることに慣れてしまえば、

人の命令通りに体を動かすということさえできれば、

大事には至らない。





しかし、

それでは、

変化は起こらない。







だから、

私は黙ってみていることが多い。

子ども達がどう反応し、

どう行動をしているか、

十分に観察してからでないと、

今、私が何をするべきなのかが分からない。






一般に、

しっかり姉

だらしなくて頼りない弟

が生み出されるのもそういう話にちかい。



(だからといって、弟がダメなわけでもなく、姉が良い訳でもない)









一方で、

なんでもかんでも待っていれば良い訳でもない。

社会のルールに迎合しなければならない瞬間などいくらでもある。

納得できていなくても、

納得出来ていても。




重要な論点は、

意味が分かってルールに迎合している状態

意味も分からずルールに迎合している状態

を区別できているかどうかに尽きる。




意味は分からないが、ルールに迎合しなければならない、と判断してやってるかどうか、そうでないかは大きく違う。






意味は分からないがルールに迎合しなければならない場合は、今はまだ立場上、知識上、能力上理解しようがないから、迎合しなければならない瞬間であることが多い。

経験していないことは、理解できることは少ない。








小学校の円の面積を求める公式。

これは、どれだけ考えようが「3.14」の意味を理解できる子は少ない。

だから、

「えーから覚えろ」と言わざるを得ない。










しかし、
「えーから覚えろ」で終わってはいけない。




問題は、その後である。

「今は分からん。でも、覚えるしかないらしい」




そう思いながら覚えた子と、

何も思わずに覚えた子とでは、
数年後がまるで違うのだ。




「今は分からん。でも、覚えるしかないらしい」と思った者は、
処理されていない違和感を抱えたまま歩いている。



だから、
円周率が割り切れない数だと知った時、
円を細かく切って並べ替える図を見た時、
高校で積分に出会った時、

「ああ、あれか」

と、勝手につながる。

後者にはそれが起こらない。
3.14は、いつまでも3.14のままである。

つながる先がないのではない。
つなげるための引っかかりが、
最初から無いのである。



これは、
助けられることと同じようなことだと思っている。

「今の自分にはできん。だから今は借りとく」

そう思って手を借りた子は、
いつか、その手を返す。

けれど、
助けられていることに気づいていない子は、
返しようがない。

怠けているのではない。
返すべきものが、
本人の中に存在していないのである。



だから、何も残らないし、何も生み出さない。

だから私は、黙って見ている。

できるかどうかを見ているのではない。

「あれ?」

という顔をするかどうかを見ている。

その顔が出た瞬間だけ、
手を出す価値がある。

しかもそれは、
解決してやるためではない。

せっかく生まれた違和感を、
消さないためである。


優しさが足りないのではない。
順番が違うのである。

先回りされた優しさは、
違和感が生まれる前に、
違和感の芽を摘む。




不器用なことは、可哀そうではない。

違和感を持たないまま、
何もかもが上手くいっているように見えている方が、
よほど可哀そうなのである。





助けられることに慣れた子は、

変化や成長する機会を奪われている

と思うから、

可哀そうなのだ。


この記事を書いた人
光庵良仁

個別指導塾Willbe塾長(代表)
光庵 良仁
(コウアン ナガヒト)

●1983年6月17日生
●赤穂市出身
●赤穂高校卒
●立命館アジア太平洋大学卒

2019年3月兵庫県赤穂市に「個別指導塾Willbe」を開校。Willbe理念は「赤穂市に最高の大学受験環境を」。

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