親が子を支配することは良くない。
その通りです。
支配していないつもりでも支配していることはある。
一方で、
「イクメン」という言葉が示す通り、
父親の家庭での関わり方がひと昔前と大きく変わったと私も感じます。
ただ、これは「優しい父親が増えた」という個人の心がけの問題ではありません。
そして、その変化は必ずしも良い面ばかりではなく、新しいかたちの問題も生んでいます。
今日は、なぜ父親像が変わったのか、その結果として何が起きているのか、そしてどこに注意すべきかを順番に整理していきたいと思います。
(私自身のために)
1. なぜ父親像は変わったのか ―― 3つの社会的な変化
① 経済の仕組みが変わった
かつての「夫が働き、妻が家を守る」というモデルは、経済が右肩上がりで成長し、終身雇用・年功序列が機能していた時代の前提の上に成り立っていました。
給料が毎年上がり、定年まで雇用が保証されるなら、男性一人の収入で家族を養うことが可能だったわけです。
しかし、経済が成熟して停滞し、雇用も不安定になった結果、男性一人の収入で家族を支えること自体が難しくなりました。
「大黒柱」という役割は、
本人の意欲とは関係なく、経済の側面から成り立ちにくくなったのです。
② 女性の社会進出と性別役割分業の解体
女性が経済的な自立や仕事での自己実現を求めるようになり、「家事・育児は女性の仕事」という前提が崩れました。
妻が外で働く以上、夫も家庭内の役割を担う必要が出てきます。
これは価値観の変化であると同時に、共働きという現実から生じた必然でもあります。
③ 「標準的な正解」が消えた
以前は「結婚して、子どもを持ち、マイホームを買うのが幸せ」という、社会で共有された一つのモデルがありました。多くの人がそのモデルをなぞって生きていました。
クレヨンしんちゃん的世界。
現在は、この画一的なモデルが力を失い、「個人がどう生きれば納得できるか」が重視されるようになっています。
父親についても「こうあるべき」という単一の正解がなくなり、各家庭がそれぞれの形を選ぶようになりました。
私達は、「育ててもらったように育てること」が難しいのです。
2. 家族の関係はどう変わったか
家族の役割の前提が変わると、家族内の関係の形も変わります。
夫婦関係 ―― 「役割分担」から「役割の共有」へ
かつては「稼ぐ夫」と「家庭を守る妻」という、異なる役割を持つ者同士が互いを補い合う関係でした。
それぞれの担当領域が分かれていたわけです。
現在は、「共に稼ぎ、共に育てる」という、同じ役割を分かち合う関係へと移っています。
担当を分けるのではなく、同じ仕事を二人で担う形です。
父子関係 ―― 「しつけの責任者」から「日常的な関わり手」へ
昔の父親は、家庭の中で社会のルールを代表する存在でした。
「悪いことをすれば父に叱られる」という、外部の権威としての役割です。
現在は、子どもと日常的に関わり、一緒に過ごし、気持ちを言葉で伝える関わり方が中心になっています。
叱る役割が消えたわけではありませんが、それだけが父親の役目ではなくなりました。
3. 昔と今の整理
| かつての父親像 | これからの父親像 | |
|---|---|---|
| 役割の前提 | 男性一人で家計を支える | 夫婦で家計を支える |
| 夫婦の関係 | 役割を分担して補い合う | 同じ役割を分かち合う |
| 家庭での立ち位置 | 権威・ルールの代表者 | 共に暮らし育てる側 |
| 子どもとの関係 | しつけの最終責任者 | 日常的に関わる存在 |
| 感情表現 | 抑える | 言葉で伝える |
| 家事・育児 | 妻に任せる | 主体的に分担する |
4. 現代の父親が直面する「外側の矛盾」
新しい父親像は理想的に語られがちですが、社会の仕組みはまだそれに追いついていません。そのため、今の父親世代は複数の板挟みを抱えています。
職場と家庭の論理が衝突します。
企業文化の多くは、今も「いつでも仕事に全力を注げる男性」を前提にしています。制度こそ整ってきたように思いますが、まだまだ理想的な状態とはいえないことが多くあります。
残業にしろ産休にしろ有給にしろ、まだまだ実験途中な雰囲気です。
一方で、家庭からは「育児に積極的に参加する父親」であることを求められます。長時間労働を求める職場と、家庭での参加を求める家族のあいだで、時間そのものが足りないという現実的な問題です。
「稼ぎ手」以外の自分の価値も見えにくくなります。
「男は仕事で稼いでこそ一人前」という価値観を内面化したまま育った世代にとって、稼ぎ手以外の自分の価値を家庭の中でどう見出すかは簡単ではありません。
さらに「目に見えない家事・育児」の分担という課題があります。
子どもの予定管理、持ち物の把握、体調や気持ちのケアといった、皿洗いのように形に残らないタスクです。「いつ何が必要かを考え続ける」という負担をどう分け合うかが、夫婦間の新しい論点になっていることは自明でしょう。
5. 「優しい関わり」が、新しいかたちの支配になりうる
ここまでは、変化をおおむね前向きな移行として説明してきました。
特に、男性を擁護するつもりもないため、父親という言葉をそのまま母親と置き換えていただいても良いです。
男女ともに、私達は、育ててもらったように子どもと接することは、経済的にも許されず、模範となる事例を近くで見ることも出来ません。
一方で、主体性や個人の尊重という言葉がますます流行ってきています。
「主体性や個人の尊重」といった言葉には批判もあります。
権威を手放して「子どもの気持ちを尊重する」スタイルが、見方を変えれば以前より徹底した支配になりうるという批判です。
子どもの意思に任せすぎるのも良くないということです。
これは父親に限らず、現代の親や教育者全般に関わる論点なので、塾の立場からもどうしても考えてしまいます。
決して、親を教育したいという意味ではありません。
私自身も、子ども達と接しながら迷うこと、なのです。
どういうことか?
例えば、
子どもを祖母の家に行かせる場面
昔ながらの権威的な親はこう言います。
「おばあちゃんの家に行きなさい。お前がどう思おうと関係ない、これは決まりだ」
命令されているのは「行く」という行動だけです。
子どもはしぶしぶ従いますが、心の中では「本当は行きたくない」と反発できます。外側では従っていても、内側の気持ちは自分のものとして残ります。
一方、いま風の「優しい親」はこう言います。
「おばあちゃんはあなたが大好きなんだよ。本当に行きたいなら行きなさい。行きたくないなら行かなくてもいい。でも、おばあちゃんは悲しむだろうね」。
一見すると選択の自由を与えているように見えます。
しかし、実際には「行かない」という選択肢は事実上ふさがれており、そのうえで「自分から進んで行きたい」と内心で思うことまで求められます。
「反発する」
しぶしぶでも反発できることは、悪いことばかりではないのです
行動だけでなく「気持ち」まで指定される
昔の権威は「行動」を強制しました。
新しいスタイルは「やりたいという気持ち」までを求めます。
「塾に行きたいって言ったのはあなたでしょ?💢」
「これはあなた自身が決めたことだよね」という形を取ることで、親が望む選択を、子どもに「自分の意思で選んだ」と思い込ませます。
表面上は子どもの主体性を尊重しているように見えて、その主体性が親の側であらかじめ用意されている、という点が問題です。
子どものやる気を当てにしてはいけません笑
そもそも気持ちなどやってみないと分からないですし、
気持ちなど上下するものです。
「自由に選んでいい」が、考える力を奪うことがある
もの分かりが良さげで優しそうな考え方は「好きにしていいよ」と言いながら、親の期待に沿わない選択をした瞬間に罪悪感が生じる仕組みになっています。
子どもは「親を悲しませたくない」という気持ちから親の期待を先回りして読み、「正解」を選び続けます。
その結果、「自分は本当は何をしたいのか」を自分で確かめる機会が減っていきます。
自由を与えているように見えて、自分で決める力がかえって育ちにくくなる、という逆説です。
なぜ、こうした関わり方になるのか
この逆説を考えるには、その背後に大人の側の不安があると見ます。
現代の親は「親として絶対に正しい」という自信を持ちにくくなっています。
上から押さえつけて反発されたくない、嫌われたくない、という不安がある。
「これはこの子が自分で選んだことだ」という形を取れば、親は「無理に従わせている」という後ろめたさから逃れられます。
つまり、親自身の不安を処理するために「自分で選んだことにする」という言い方が使われている、のです。
私も都合よく、勉強しなかったのはあの子の選択だ、と成績の上がらない言い訳に思いこもうとする瞬間があるのです。
(これはちょっと別の話ですね笑)
まとめると ―― 「強制しないことで、より深く強制する」
このような話をまとめると、
これは「強制しないことによって、かえって深く強制する」関わり方だということです。
命令や叱責という分かりやすい支配ではなく、「愛情」や「あなたを尊重している」という受け入れやすい形を取るぶん、相手は反発しにくくなります。
権威で強制されることよりも、追い込まれるのです。
反発の余地がないことが積もり重なり、制御不能なほどの反発になることもあるのです。
これは親子関係に限りません。
職場で「残業を強制はしないが、やりがいやチームへの貢献を理由に自発的に残ってもらう」といった言い方も、同じ形をしています。
「自由に選んでいい」という建前のもとで、実際には一つの選択肢しか許されていない、という点で共通しています。
ただし、これは「子どもの気持ちを尊重するのが間違いだ」という話ではありません。
問題は尊重そのものではなく、「尊重しているように見せて、実は一つの答えへ誘導する」使い方にあります。
本当に選択肢を渡しているのか、それとも選んだ形だけを作らせているのか。この違いを意識できるかどうかが分かれ目になります。
6.「自由に選んでいい」が、考える足場を奪うとき
ここまでで、優しさが支配になりうるという話をしてきました。
では、なぜそんなことが起きるのか。
少し抽象的になりますが、もうしばらくお付き合いください。
私たちが何かを「これがいい」と考えるとき、実は裏で必ず「あれではない」を切り捨てています。
消去法や進路における反発といってもよいでしょう。
進路選びにおいて、行きたい学校を選ぶことは、行かない学校を選ぶことでもあります。
(親のいうことは選ばない)というのも立派な選択でもあります。
バランスの問題です。
「Aを選ぶ」は「Bは選ばない」とセットでしか成り立たない。
つまり、考えるという行為は、いくつかの候補のあいだに線を引くこと、なのです。
だとすると、候補も対立もない、のっぺりした空間では、思考は足場を持てません。
何かと比べる「あれ」がなければ、「これだ」も生まれないからです。
完全な自由は、空っぽを生む
ここで、「完全に自由」とはどういう状態かを考えてみます。
それは、あらかじめ与えられている枠や候補を、全部取り払った状態のことです。
つまり、枠をすべて外した「純粋な自由」は、解放であると同時に、考える足場そのものが消えた空っぽの状態でもあるのです。
「何でも選んでいい」は、裏返せば「どこにも手がかりがない」。
選択肢が多すぎると、人はかえって動けなくなります
例えば、
豆腐1000個の世界観
スーパーに、豆腐を買いに行けば豆腐が1000個もある。
木綿か絹かの知識もなければ、木綿を買ってこいとも言われていない。
知識も指示もないまま『好きに選べ』と言われると固まるこの感覚も、進路や勉強に関しても同じことだと思います。
空っぽは、空気を読まされる?
そして、これが「やさしさの支配」につながります。
足場を失った空っぽは、空っぽのままでは留まってくれません。
人は、その空白を何かで埋めようとします。
では、子どもは何で埋めるのか。
「親が何を望んでいるか」を読み取ることで、埋めるのです。
だから「好きにしていいよ」という自由は、自由を渡したように見えて、
実際には子どもに「正解を察しろ」という、新しい宿題を出していることになります。
命令を引っ込めて作った空白を、子どもが相手の期待で埋めにいくから、
「命令しないことで、かえって深く強制する」という構図が生まれてしまいます。
枠は、思考の敵ではない
逆説的ですが、
枠や選択肢は、思考の敵ではありません。
むしろ、思考が立つための地面です。
だから「自由に選ばせる」ことの良し悪しは、自由かどうかでは決まりません。
分かれ目は、渡しているのが本物の選択肢なのか――どちらを選んでも見捨てられない、現実に複数ある道なのか。
それとも、形だけ選ばせる空っぽの自由なのか。
前者は思考を起動させ、後者は空白と誘導を生みます。
さきほどの「本当に選択肢を渡しているのか」という問いは、つまるところ、ここに行き着くのだと思います。
「考えられない子」が育つ可能性
ここまでは、その場その場の話でした。
でも、これが何年も続くと、どうなるか。
「正解を察して、それを選ぶ」を繰り返してきた子は、
だんだん、自分で候補を立てること自体ができなくなっていきます。
考えるとは、いくつかの候補のあいだに線を引くことでした。
ところが、その候補をいつも親が(あるいは先生が)先回りして用意してしまう。
すると子どもは、線を引く練習をしないまま育ちます。
反発することは悪い事でもないというのは、そういった意味でもあります。
選ぶ力ではなく、「相手が用意した正解を当てる力」ばかりが鍛えられていく。
塾でも、こういう子に出会います。
「どっちだと思う?」と聞くと、答えではなく、
こちらの顔色を見るのです。
正解そのものより先に、「先生はどっちを言ってほしいんだろう」を探している。
これは、その子が怠けているのでも、頭が悪いのでもありません。
ずっと、そう振る舞うことを求められてきただけなのだと思います。
自由を与えられすぎて、考える地面を一度も踏ませてもらえなかった。
だから、本当に「自由に選んでいい」と言われると、固まってしまう。
何でも選べるはずなのに、何も選べない。
これが、空っぽの自由がいちばん長く尾を引く形なのだと思います。
7. 過渡期であるという認識
以上をまとめると、現在の父親像や教育は完成された形ではなく、移行の途中にあります。古い役割(一人で稼ぐ、権威として振る舞う)が成り立ちにくくなった一方で、新しい役割はまだ社会の仕組みと摩擦を起こしている。
しかも、新しい役割の中にも「優しさという名の誘導」という別の落とし穴がある。多くの父親は、はっきりしたお手本がないまま、各家庭で個別に答えを探している状態です。
もちろん、新しい父親像があるならば、対称的な場所にいる母親も「新しい母親」だと言わざるを得ません。
だから、この話は父親を擁護する話でもないのです。
教育の現場から見える接点
子どもへの接し方を考えるうえで実用的な問いを残します。
それは、「自由に選んでいい」と言うとき、本当に選択肢を渡しているのか、という問いです。
本当に「自由に選んでよい」といった覚悟を持って、その言葉を発しているかどうかです。
「やる気が出たらやればいい」
「無理にとは言わないけど」
という言い方は、
一見すると子どもの自主性を尊重しているようでいて、実際には「やらない」という選択を罪悪感でふさいでいることがあります。これは家庭でも塾でも起こりうる構造です。
私の実感としては、子どもが本当に困ったときに相談を出しやすいのは、選んだ結果を罪悪感とセットにされない関係です。
期待に応えられなくても見捨てられない、という前提があってはじめて、子どもは自分の本当の状態を言葉にできます。
逆に「あなたのためを思って」という言い方が、子どもにとって反論できない圧力として働いていないか。
関わり方が分担から共有へ、権威から日常へと移った今だからこそ、この点は意識しておく価値があると考えています。
本当に大事だと思っていることは命令してよいはず。
赤信号を無視した子どもは死にます。
よって、赤信号を無視する子どもに「自由」は選ばせないでしょう。
命令によって、赤信号を無視しないというルールを徹底的に教育するでしょう。
「ならぬこと」は「ならぬ」のです。
最終的には、
「他人」である我が子を思い通りに育てることはかなわないだろうし、
束縛は子ども達の目を死なせることになり、良くありません。
間違いなく強制的なコントロールは良くありません。
マンツーマンで子どもを教えようとする行為は「強制的なコントロール」です。
良かれと思って子どもの勉強を教えてらっしゃる方で、「強制的なコントロール」になり、思考停止を招くこともよくあります。
その前提のもと、
高校選びに関して、本当に子どもの自由を尊重するのも良くはなく、少なくとも本音として伝えておいて良いのではないだろうかと思うことはある。
難しいですね。
時代の空気として「自由」「主体性」「選択させる」ことが増えてきたように思います。
しかし、
「自由」を選ばせてきた。
では、
結果的に「不自由」な状態を招くことはある。
だからこそ、
たまには「本物の選択肢」を、こわごわでも渡してみる。
それだけで、子どもは少しずつ線を引きはじめます。
と心のどこかにしまっておいていただければ幸いです。
受験に対するほのかで心地よい諦め。
学力や進路に対するほのかで心地よい諦め。
申し訳ありません。
四の五の言わずに、成績をあげます笑







