先日、
京都で幼児教育をされている諌山先生の勉強会に参加してまいりました。
Willbeで行っている小学低学年指導は、諌山先生から学んだものを私なりにアレンジしながら取り組んでいるものです。
勉強会の復習がてら、
今回の勉強会のまとめを行い、諌山先生の言葉を引用しながら、あらためてなぜ塾が小学1年生の指導を行っているかについて話して参りたいと思います。
精神的な幸福度調査
日本の親の、または日本の子どもの感じる幸福度が「先進国38ヵ国のうち37か国位」という事実があります。(2020年、ユニセフ、「精神的な幸福度」国際調査)
同じ調査では、日本の子どもの「身体的健康」は一位であるにもかかわらず「精神的な幸福度」は、37位と信じられないほどに低いのです。
調査では、80%の親が下記について不安を抱えていると答えています。
①変化の多い時代を生き抜けるか
②グローバル人材になれるか
③キャッシュレス時代における金銭感覚が身につくか
親は、拡大する格差に「わが子が振り落とされること」におびえているからこそ、ブローバル社会の中で競争に勝てる能力を子ども達に身につけて欲しいと願っていることが伺えます。
小学校の英語教育、プログラミング、バカロレア、受験競争が象徴するように、企業・国・学校・家庭がタッグを組んで子どもたちにあの手この手で新しいことを学ばせようとしているのではないでしょうか。
ところが、
子ども達からすれば大きなお世話とでも申しましょうか、それに答えるには過度のプレッシャーを感じたり、無力感のために、早々とあきらめてしまうこともあるかもしれません。
教育の本来の目的は、
「学力やスキル(または資格)を身に着けるだけではなく、子ども達の人間性を育てること。」
のはずですが、大人たちが、大人が作る指標(英検、テスト、TOEIC、受験)によって高い能力を求めている中ではどうしても、大人が作る指標を優先せざるを得なくなります。
だからといって、まだ脳と心が育ち切っていない子どもを、「大人が作る指標」漬けにしてはいけません。
親としても「別に点数が高い子になって欲しい」と思っているわけではないが、どうしても「点数によって表評価される」ため、
いつのまにか「点数によってわが子を評価する」ことになってしまうのが、親の本音でしょう。
弊塾も塾ですから、点数にはこだわります。
重要なことは、何事にも子育てには「順番」というものがある真実を知るべきです。
「1人っ子」「共働きの家庭」が増えている時代において、子どもがバランスを崩すと家庭全体が不幸になってしまいます。
多様性の時代。
多様性の時代だからこそ、求められる「人物像」「スキル」もすぐに変わってしまいます。
だからこそ、
どんな時代でも、どんな環境でも通用する「普遍的な人間力」のようなものが必要になっていきます。
学歴社会が終わるとは思いません。学歴を身にまとっても良いでしょう。しかし、その時代時代で重要視される「スキル」はやはり変わってまいります。
そして、
国の意思決定や制度の変更に時間がかかる以上、「スキル」を平等に教育する機会というものは永遠に実現がされないでしょう。実現される頃には、必要とされている「スキル」は変わっているのだと思います。
または、「必要なスキル」は、商業的な意味合いでブームが起こりどうしても本質的ではないものが混じってしまいます。
だから、
普遍的なもの、スキルの土台となるようなものを模索していくことが重要なのだと思います。
普遍的な人間力とはなにか?
毎年のように「学力の低下」「文章が読めない子ども達」といった言葉がニュースや新聞の紙面を飾っています。
冷静に考えてみれば、私が子どもだったころにも同じようなことは言われておりましたし、時代をさかのぼってみますと戦後教育においてもそういった危機感を大人たちは持っていたように思います。
違いがあるとするならば、技術の変化によって、問題視されるものが代わるということぐらいでしょう。ゲームが最たるもので、いつの世の中もゲームが「悪者」にされますが、明確に「ゲームが大切なことを失わせる」と説明しうるものはなく、逆に、近年、ゲームの効用が明らかにされているような気もいたします。
突き詰めると、
能力とは、行きつくところは人間性のことです。
人間性
・理解力
・判断力
・創造力
・思考力
・記憶力
何度かブログで紹介させていただいた上記2つの本に私は衝撃を受けています。
犯罪を犯した少年たちが取り組んでいるプログラムが、モンテッソーリをはじめとした幼児教育(のようなもの?)で行われているプログラムと全く同じであったことに衝撃を受けたのです。
これは、(理解力・判断力・創造力・思考力・記憶力)といった人間能力の低下が、社会性の低下に直結し、社会性の低下は犯罪の増加させることを意味してしまいます。
この社会の混乱の原因に、教育が無関係であるとは言えないでしょう。
ここで申し上げたいのが、「テストの点数が低いと」「犯罪が多い」ということではございません。もちろん、「テストの点数と犯罪件数」の相関を示した資料はいくらでもありますが、それは真実ではないように思います。
「知識とテクニック」のみ、「思考力と記憶力」のみに特化し、大人が用意した指標にこだわるとバランスが悪くなり、「理解力/判断力/創造力」が乏しくなるということなのだと思っています。先ほどのゲームもバランスの問題なのだと思われます。
理解力/判断力/創造力に乏しい教育は、大多数の子どもに、理由なき挫折感を味合わせることになります。
バランスと順番
小児科医の成田奈緒子さんの著書などを拝見すると、「体や情緒」がしっかりとした土台を築きそのうえに「お勉強や心の脳」が重要だということを再三おっしゃっておられます。
私自身は、塾の先生ですから専門外のことはたくさんありますが、「勉強」にとって必要な土台を身に着ける必要なことはなんだろうと考え、また、知識のみを追求したバランスの悪い教育のようなものを見る中で、
本当に大事なこととして成田奈緒子先生のような方の著書を読むようになりました。
犯罪と能力の関係が示すように、理解力/判断力/創造力/思考力/記憶力は、社会という3次元関係の中で日々の行動と精神を作り上げていく人間にとって不可欠な能力と言えます。
だから、学校教育の内容を学んでいくためにも「理解/判断/創造/暗記/思考」する基礎能力というべき力が問題になるのです。
プリントで問題を出来るようにするのではなく、プリントをする前に、プリントの問題が出来るような刺激を行い、能力を育成しておくことが重要です。
そのために、パズルがあります。
まず、具体物で試行錯誤させたりする能力を育成した後で、プリントの問題をさせるのが土台です。
成田先生も、「指先の器用さ」「指を動かすことの重要性」といった話を著書で述べられています。あらゆる能力は、関連しあっています。指先の調整能力や空間把握能力が標準的に発達していないと能力は発達しにくいのです。
小学校1年生で、文章題が苦手だとするならば、それは単に、語彙力に問題があるのではなく、指先の調整能力や空間把握能力が、まだ、その問題を解くほどに発達していないからだということもできます。
ですから、
そのような場合、
苦手だからプリントを繰り返すといった学習方法をすると本末転倒になるのです。
プリントで問題演習する前に、問題解決能力、試行錯誤する力、具体物を使って数量感覚を身に着けることが重要なのです。
塾をやりながら「1」という数を教えるのは、難しいことだと痛感します。
リンゴも1つ
飴も1つ。
しかし、大きさは違うから同じ「1」だとはとらえにくいのです。
だから、「1+1」は非常に難しいのです。
まずは、
リンゴも飴も「同じ1」なんだということを実感しなければなりません。
ここを暗記で乗り切ってしまうと、分数を小数や整数と同じように、一定のものだと考えたり、分数を図形的にとらえることが出来なくなるのです。
小数0.5は、数直線上の「0と1の中間」に固定されている数ですが、1/2というのは、「あるもの」の半分であって、必ずしも0.5と同じわけではないのです。
1を2つに分けた数には違いないのですが、「もとの1」が何であるかを具体的に示していないのです。
ここに「具体的な1」を理解しておく必要があるのです。
プリントによる算数教育の欠落は、「算数を具体的な形を持つ、目で見える、手で触れるものとして教えていない」ということなのです。
小学校低学年の教科書を見てみますと、かなり「絵」が教科書に書かれています。これは「具体物」を使って教えるべきだというメッセージに他なりません。
私たちが「図形教育」の必要性を強調している最大の理由は、
学問の基礎たる数学があるべき姿を保つことによってはじめて正しい精神の育成が可能となるからだと考えるからです。
抽象的な算数教育だけではなく「実験道具」としてパズルを使用し、手と頭で考えさせる具体的な算数教育の必要性を訴えたいのです。
本物の体験を通して、
相応する力・感受性を育まなければ、物事を適切に表現することは出来ないのだと思うのです。
6歳までに大人になったときの脳の機能の8割が完成すると言われているからこそ、
低学年なのです。
小学低学年クラス
毎週水曜日
16:30~18:20
(途中10分休憩)
対象
小学1年生~3年生
(4年生以上は、小学1~3年生から継続している場合のみ)