中学生テスト前と他者
14:00
4人が自習に来る。
15:00
3人増えて7人。
固定化してきましたな。
もうちょい声掛けを頑張る笑
中1が、
「良い準備が出来る部屋”Shall We”って、Willbeに入っている子しか使えないんですか?」
と聞いてきた。
すまない。
その通りだ。
キミのすぐ後ろに友達がいないことを祈る。
国語で「他者」という言葉は頻出なのだけれど、
私は結構好き。
もう他人という冷たさはなくて、あったかさしか、感じません。
勉強は基本的に孤独なのだけれど、
孤独を嫌う子達は一定層いる。
なんだけど
そういう場合は、「ひとりよがり」の場合がある。
結果が出なかったとき、
「なんで」
と才能のせいにしたくなる。
自分だけ頑張っている気になる。
そうやって自分を追い込んでしまう。
一方で、
その逆もある。
勉強が正しいものとして、
言われ続けて、
勉強が正義だと思い込む。
悪くはない。
その時、
勉強しない子達に対して、
なにかどす黒い感情を抱くのかもしれない。
だけど、
やっぱり他人は見えない。
その子は、
勉強には力を入れてないかもしれないけれど、例えば絵を描くことや、音楽、スポーツ、演劇、ダンス、お笑い、ボランティア、釣り、家庭菜園、料理など、何か他のことに力を入れているのかもしれません。
絵を描くという行為は、自分が世界をどう見て、切り取り、どう自己と共に表現するかという営みであって、それはものすごく知的な営みなんだと思う。
ボランティアで人のために手を動かすということは、その対象に共感などを感じるがゆえにできることであり、極めて知的な活動に、私には見える。
農作業や園芸は、自然の様子を眺め、感じとり、対話し、人以外のものに愛情を注ぎ適切に世話をするわけで、これまた非常に高度な知的な営みでしかない。
スポーツにしても、音楽にしても、その他さまざまな物事は、どれもこれもいわゆる勉強とは異なる表現方法における知的な営みなのだと思うのです。
と。
言葉にしても、
そういうことを感じたことがある人にしか響かないのかもしれない。
だから、
私は言葉で伝えはするのだけど、
感じて欲しいと思うのだ。
自習室。
14時から明日のテストのために、
勉強を始めている子達を見て、
感じては欲しいとは思う。
心苦しいのは、
学歴社会がどれほど
非難を浴びようと、
目の前のふとした目標を
口にしたとき、
あきらめざるを得ない現実は、
学力であることが多い。
スポーツでも園芸でも何でもよいのですが、
そこだけは
若干、心苦しい。
高校生たちが○○大学へ行きたいと
嬉々とした表情で、
あるいは何気なく
言葉にしたとき、
私は、
無理だ
と言わざるを得ないことの方が多い。
夢を否定しているようだし、
可能性を否定している気分だし、
可能性を広げる行動を提示したとき、
やりきれないことが多い。
これは、職業としてのバイアスがあることは間違いないのだけれど。
傲慢に見える人でも
あえて傲慢な姿を演じきっている場合もある。
無自覚な場合もある。
小学生算数
塾にきて、
5分間は絶対に「うつくしぃく」文字を描くルーティン。
これも全員ではない。
運筆能力が乏しい子には頑張ってもらう。
文字は美しく書く必要なないのだけれど、
あまりにもコントロール出来ていない文字や歪な文字だと、
ちょっと問題がある。
ご家庭でやって欲しいのだけれど、
そうとも言えない。

来週で、
のり子先生ともお別れです。
子育て経験あり、
子どもと関わることが好き、
なんとなく私の雰囲気が好き。
そんなかたがいらっしゃれば、
是非、
いっしょに働いてくださいませ。








