映画の授業 グッドウィル・ハンティング

映画は最高の国語の授業――言葉は、感じた先にある。映画から学ぶ語彙力と思考力を解説する記事のアイキャッチ画像映画で学ぶ知の技法


今日は映画の授業。

生徒達にも感想を書いてもらっているので、私も感想を書いておきます。

映画の授業は国語の授業。



高校入試の国語は、ある程度の子なら簡単に思えるから、読む練習にはならない。

高校入試と大学入試の差は、国語にあるともいえる。

そういう言い方をしたら、どの教科も、そののように言えてしまうのだが💦




語彙力は単語帳で育つのか?

語彙力がないとして、

語彙力がないなら単語帳に頼るしかありません。

だから、多くの高校生は「現代文単語帳」なるものを渡されて暗記しています。



「美しい」という言葉があります。

美しいという言葉をどのようにして覚えたのか?

おそらく辞書的な意味ではないはずです。

辞書や単語帳を使って、暗記していないはずです。



美しいと言われているものを、たくさん見て、触って、その後に「美しい」と言えるようになったのだと思います。

美しいとは何かという話は面倒なので、小学生的な感覚に留めてください笑





大学入試現代文にも同じことが言えます。

小難しい言い回しが頻発しますが、

映画や小説を読んで、

あの時のあの感情を「悲しい」と表現するのか。

と思っていただくのが理想的。

覚えねばならないですが、暗記では言葉を理解したとは言いにくい。



例え、それが専門用語だったとしてもです。

言葉の微妙なズレ。

ありふれた「他者」という言葉ですら、使う人によって意味合いがことなります。

安直な言い方をすれば

グッドウィルハンティングにも、主人公にとっての「他者」がおおく登場してきています。

親友
恩師
恋人

それぞれが完全に一致することなく、

分かり合えないが認めることは出来るといった

雰囲気で物語が終わるわけですが、

「他者」なんて現代文で頻出基本用語です。

この他者という感覚が育っていない場合、入試問題を読むには苦労致します。

「美しい」と同様なのです。





現実として、そういった文章を読まねばならないのです。

高校入試レベルの問題を解いてもこの感覚は養われません。

厳密に言うと、高校レベルの問題もキチンと時間をかけて読み解くと、1時間で解説が終わるものでもありません。

とはいえ、

みなさん、

国語に時間を費やすのは嫌でしょう。

でも、高校生になってからでは本当に遅い。

だから、月に一回ぐらいは映画を通して、あの小難しい言葉は「あの時のあれだったんだ」という感覚を感じて欲しいとも思う。

映画の授業の目的は、それだけではないが、感じるものがあってこその「言葉」なのです。

意味を暗記しても、言葉を理解したということにはならないのです。



グッドウィルハンティング

要約してしまえば、

天才の自己実現物語。

才能を持ってしまったが故に傷ついた青年が、

心理学者ショーンと出会って、

自分の殻を破って旅立っていく物語。

以上です。




物語としての結末は予想しやすい。

ウィルもショーンも、過去に深く傷ついて、もう一度「社会に心」を開くことを恐れている。

こんなストーリーは王道なのであります。



恋人とどうなるか?

ここは賛否両論。

こうあって欲しいと論争が起こる。

描かれてはいないから、妄想でキャーキャー言いたいところです笑




中学生達の感想を読みながら一歩踏み込みたい。

冒頭の主人公ウィルの友人の発言。

「アイルランド系移民だからって何だっていうんだよ」

に注目すれば、

才能の話じゃなくて、生まれの話だ

と話してみたくなる映画です。


後半に、私の感情移入の話を書いておきます。



以下は、無粋すぎる話なので、ほどほどに読んでおいてください笑


対比構造に着目せよ

「才能で成功する」って、本当だろうか

この映画で描かれている対比は、

(対立構造を見抜く)

(国語の基本ですよ)

主人公ウィルは、清掃員の青年だ。

アメリカの超名門大学の廊下に書かれてあった、そして、エリートたちが誰も解けなかった問題を、大学生でもない清掃員(主人公)がモップ片手にさらりと解いてしまう。

主人公は、歴史に残るレベルの数学の才能を持っている。

アインシュタインレベルかもしれません。

その彼を導くショーン(心理学者)も、もしかしたらウィル以上の知性の持ち主だった。

ランボーが嫉妬するほどに。

ランボーの隠れた劣等感のようなものが描かれているシーンはある。

でも映画の中で、ショーンの才能が花開く瞬間は、ついに来ない。 彼はずっと、コミュニティカレッジの一教師のままでした。



※コミュニティーカレッジ
日本には存在しない制度なので説明はしにくい。
日本の短大とも専門学校とも違います。2年制の公立カレッジで、準学士号(associate degree)を出したり、4年制大学への編入の足がかりになる機関です。




一方で、

ウィルの恋人スカイラーや、ハーバードの学生クラーク、名門大学教授のランボー。

彼らは、ごく平凡な才能でも、何の制約もなく成功への階段を上っていく(ように見える)

(ホントはそんな風に描かれていない。)

この差は、いったい何で決まっているのか。




生まれた場所と階級だ

このように映画をまとめるとショーンのことが見えなくなるのですが、まずは、対立構造を見抜くということでお許しください。

ウィルやショーンは、サウスボストン(サウスィー)の労働者階級の出身です。 直接的な説明はないが、セリフや表情を読み取ると、労働者階級出身だということが分かります。

エリートであるランボーがしぶしぶショーンへお願いしに行くシーンなど、そういう会話があります。

一方で、スカイラーたちは、ハーバードやMITのある、川向こうのケンブリッジの世界の人間です。

川向こうのケンブリッジ(アメリカ)


以下のような背景知識がなくとも、感じることは出来るので、授業ではここまで言いません。

ボストンとケンブリッジは、別々の市です。


イギリスのケンブリッジではありません。

その間を流れているのがチャールズ川

ハーバードもMITも、どちらもボストンではなく、川を渡った北側のケンブリッジ市にあります。

川の北岸に沿ってケンブリッジが広がり、西の端にハーバード、東の水辺寄りにMIT、があります。


一方、ウィルたちの地元サウスボストン(サウスィー)は、川の南側、ボストン市内の港寄りにある下町の一地区です。

つまり地元の若者から見ると、ハーバードやMITに行くには、物理的に川を渡って「向こう側」の街に入っていくことになる。

この「川を渡る」という行為は、映画の中で象徴的な意味を持っていたということです。

川は「つなぐ」と同時に「隔てる」


地元の人にとって、この川は地理上の境界ではありません。

ケンブリッジ市自身の資料にこんな表現があります。

「チャールズ川は、つなぐと同時に隔てる。観光客や通勤者は行き来するが、より本質的な意味で、ボストンとケンブリッジは二つの異なる世界として機能している」。

日本で言うと、港区のタワマンと赤穂ぐらいの違いでしょうか?

そして「ケンブリッジは、サウスィーとは別の宇宙だと見なされている」と。

世界が違うのであります。

たった3マイル(5km弱)の距離なのに、文化的にはまるで別世界なのです。


歴史的な背景 ― アイルランド系移民とWASP

この対立には、もっと古い根があります。


サウスィーは、歴史的にアイルランド系カトリック移民の労働者階級が暮らしてきた街です。

対して、ハーバードを頂点とするケンブリッジのアカデミアは、もともとピューリタン(プロテスタント)が神学校として作ったのが起源で、長らくWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)のエリート層のための学校でした。

(トランプ大統領にまつわる話で良く登場していた用語だと思います。)
(正確には☝の話は、ケネディー大統領の時代ですが💦)

(ニュースをみなさい中学生( ;∀;))

だから「サウスィー対ケンブリッジ」は、

金持ち対貧乏ではなく、

民族・宗教・移民史をまるごと背負った対立ともいえるのです。

冒頭の「アイルランドで何が悪い」といった発言はこういった背景があります。


映画は、これをどう描いているか


この背景と地理を頭に入れて映画を観ると、いくつかの場面の重みが変わります。

ウィルはMITの中にいるのに、MITの人間ではない
彼は天才なのに、立場は「清掃員」。
川向こうの最高学府の床を、モップで磨いている。

物理的にはその世界の中にいるのに、決してその世界に「属して」はいない

この構図が、階級の壁を可視化しています。

ハーバードのバーでの一幕
ウィルの親友が、ハーバードの学生がたむろするバーを見て「壁に方程式とか書いてあると思ってた」と言う。

川を渡ってきた地元の青年にとって、向こう側の世界がいかに想像の外にあるか。その距離感が、笑いの形で出ています。いつでもどこでも笑は常にシニカルです。

スカイラーとの恋を「スラミング」と呼ぶ
ウィルは、ハーバードの女性スカイラーとの恋愛を「スラミング(上の階級の人間が、面白半分で下町に降りてくる遊び)」「町の反対側の男との火遊び」と表現します。

川向こうの女性と、こちら側の自分。
ウィル自身が、二人の間に横たわる階級の溝を、誰よりも意識しているわけです。

赤穂市民と港区女子が遊んでいるというようなことでしょうか?

ちょっと違うか。


サウスィー
(川の南・ボストン)
ケンブリッジ
(川の北)
階級労働者階級エリート・有産階級
民族・宗教アイルランド系カトリック移民WASP(プロテスタント)の伝統
象徴工場、酒場、肉体労働ハーバード、MIT、知の権威
映画での役割ウィルが「属する」場所ウィルが才能を持ちながら「入れない」場所


チャールズ川一本が、才能ではどうにもならない階級の境界線として機能している

だからこそ、

最後のシーンでウィルが車でその境界を越えて走り去る姿は、盛り上がるのです。



地政学という言葉が流行りかけていますね。


ぜひ、ボストンの地図にもご注目を。

サウスィー出身なら、どれだけ才能があっても凡庸さの中に埋もれる運命にある。

持てる者の階級に生まれれば、平凡でも成功できる。

つまりこの映画は、「努力と才能があれば成功できる」というアメリカの神話が、いかに現実とズレているかを、暴いている

とも見えるのです。

ウィルの旅立ちは「勝利」なのか

ラストシーン。

ウィルは、整えられたエリートの道を蹴って、好きな女性を追いかけて車を走らせる。

好きな女のために、エリート街道(夢/目標)を捨ててる場合じゃない。

私なら絶対に、夢と目標を選ぶっ

———-

そんなことを書いてくれた中学生がいましたね。

それはそれで良いのです。

3年後に同じことを言ってるのか変わってるのか。

変っていても良いのです。


「なぜチャンスをみすみす捨てるんだ」
「恋人を選んで欲しい。」

この辺については、どういう意見でもよいです。

重要なことは、妄想で物語を観る事ではなく、しっかり対立構造読解の第一歩を把握したうえで、感想を書いて欲しいということです。




もしウィルにショーンという同郷の理解者がいなかったら。

もしランボー教授が、たまたま彼の落書きを見つけていなかったら。

彼は、間違いなく労働者階級として、

大好きな勉強をすることもなく自分を押し殺して、

仲間と過ごしていたでしょう。

あれだけの才能を持ったまま、誰にも知られずにね。

つまりウィルの成功は、「アメリカの実力主義がちゃんと機能している証拠」なのではなく、

むしろ逆で、

実力主義が機能していないからこそ、これほど特別な幸運と介入がなければ、才能は世に出られなかった。

という点を読み取れるようになって、ラストシーンを見て欲しいのです。


この映画が、無自覚にやってしまっていること

ただ、私はこの映画を好きとか嫌いとか言いたいわけでもないのです。

好きかどうかで言うと好きです笑

監督は、おそらく善意で「労働者階級の若者がつまずくのは、頭が悪いからじゃない。チャンスがないからだ」だと言いたいのかもしれないし、そうではないのかもしれません。



さらに一歩論点を増やしてみる

サウスィーの青年たちは、しばしば「ちょっと間抜けな連中」として描かれてしまっています。

主人公の友人が、ハーバードのバーを見て「壁に方程式とか書いてあると思ってた」と言う場面なんかね。

赤穂に住んでいながら千種川って世界で一番大きいんだと18歳が言ってるようなもの。

(6歳がそういうなら良いですが、、、。)

機会の不平等を告発しようとして、 結果的に「彼らは知的にも劣っている」という偏見を、うっすら補強してしまっているとも言うことは出来るのです。

良かれと思って格差を語る人ほど、無自覚に、語る相手をステレオタイプの檻に入れてしまうことはよくあります。

あ~怖い。

ビビる。

善意がもっとも悲劇を生み出す。

よくありますよね。

そういうこと💦


私の感情移入

ウィルとショーンの2面性

ここが、私がいちばん感情移入してしまう論点です。

私の心をえぐりぬきます。

ウィルは、バーでハーバードの学生に絡まれたとき、

お前は、本に書いてあったことをそのまま喋っているだけだ。

自分の頭で考えた言葉を、

ひとつも持っていない、

と啖呵を切ります。

要するにウィルの主張は

「お前たちは頭の中(=本の中)で生きている。俺たちは、リアルを生きている」

です。


痛快な場面です。
中学生も、たぶんスカッとするでしょう。


物語が進むと、ウィルはショーンの部屋で、ショーンが描いた一枚の絵を見つける。

嵐の海に、小舟をこぐ男の絵。

そしてウィルは、その絵を「分析」しはじめる。

美術理論。
心理学。
本で読んだ知識を総動員して、ショーンの心の傷を言い当て、深くえぐってみせる。

亡くなった奥さんのことにまで踏み込んで、ショーンを傷つける。

ここで、気づいてほしい。

ウィルが今やったことは、バーであれほどバカにした「あの学生」と、まったく同じなのです。

本で読んだ知識だけを使って、
自分では一度も経験していないことを、
知ったように語る。

「リアルを生きている」と言い放った男が、
いちばん大事な場面で、
リアルではなく「本の知識」を武器にしてしまった。

自分の心が傷つけられたくない時、

本当の自分の心と向き合おうとするとき、

彼は「本の知識」を武器にして自分を守るのです。

これがウィルの二面性です。


翌日、ショーンはウィルを公園のベンチに呼び出して、静かに話しだします。

お前は確かに頭がいい。

美術のことを聞けば、世界中の本の中身を暗唱できるだろう。

戦争のことも、愛のことも、いくらでも語れるだろう。

でも。。。。。。

ショーンは続けます。

システィーナ礼拝堂に立ったとき、
そこがどんな匂いがするのかを、
お前は知らない。

本当に誰かを愛して、
その人を失う痛みも、
知らない。

お前が語っているのは、
全部、誰かの本の中にあった言葉だ。

と、

ウィルがバーで学生に言ったことを、今度はショーンが、ウィルに言い返しています。

ウィルは、自分の本心から守るために鉄壁の防御で、自分と向き合うことを避けてきたのです。

まだまだいっぱいありますね。

なんで、「清掃員として誇りをもって生きている」と言っている割に、本の知識をどこで手に入れたのでしょうか?


そして、ショーンにも二面性がある。

ショーンは、ウィルが持っていない「リアル」を持っている。
愛も、喪失も、本物の経験として通り抜けてきた人です。

ショーンは、ランボー先生より数学の才能がありながら、それを受け入れてくれた女性を選んだ。

でも、ショーンは、奥さんを亡くしてから、前に進むことをやめてしまっている。

名門大学の教授にもならず、コミュニティカレッジで、立ち止まったままです。

ショーンは、良心にしたがって女性と向き合った。だから、ランボーに何を言われようとも、気にする必要はありません。

本当に満足しているならば、ランボー先生と自分たちの過去について言い争ったりはしません。

経験はあるのに、動けない人。
知識はあるのに、感じられない人。

ウィルとショーンは、正反対のようでいて、同じ穴に落ちているのです。

だから二人は、お互いを必要とした。

教える側と教わる側、なんてきれいに分かれてはいないわけですね。


なぜ、私がここに感情移入をしてしまうのか?

だってね。

ショーンは、教育の本質は待つことだ、などと言っている気がするわけですよ。

待ちきれないと待つの我慢比べ。

受験という期限。

成人という期限。

根比べですね😢


さて。

ここまで書いて、私は自分の最初の話に戻ってみることにしましょう。

冒頭で、「美しい」という言葉は単語帳では覚えられない、と書いた。

たくさん見て、触って、感じた先に、ようやく「美しい」と言えるようになる、と。

ウィルの失敗は、まさにそこです。

愛を、喪失を、本では全部知っている。
でも、感じたことがない。
あるいは、知識で自分を防御した?
だから、言葉だけが上滑りして、人を傷つける道具になってしまう。

これは、現代文単語帳を必死に暗記して、
「他者」も「疎外」も意味は言えるのに、
一度もそれを感じたことがない高校生の姿と、どこかで重なるわけです。

そして、勉強めいたもの、

つまり

アイルランドの背景を語った私もアイルランド系アメリカ人の知り合いもいないのです。私も本で読んだ知識を語っているにすぎません。

言葉は、感じた先にある。

ウィルがそれを学んでいく物語だと思って観ると、
あの痛快なバーの場面の意味も、

少し変わって見えてくるはずです。


おわりに

ストーリーとしては、単純です。

でも、予測できるのはストーリーだけで、 その奥にある問い「才能は、本当に公平に報われているのか」は、映画の公開から25年以上経った今も、まったく古びていません。

この映画は、観るたびに違う問いを投げかけてくるのです。

グッドウィルハンティングは、「勉強」の良い面も悪い面も見せてくれます。

学びとは何なのか。

私には未だ皆目見当もつかない。

これこそが「学び」であると

語れはしない。

  • ウィルに焦点を当てても
  • ランボーの劣等感、
  • ショーンの孤独
  • なぜウィルは彼女を「愛してない」などと発言したのか?
  • なぜカウンセラーは「ゲイ?」とウィルに聞かれて怒ったのか?
  • ウィルにあっさりと数学の証明をされて、苦悶の表情をうかべた教授
  • ランボーが語った「自由」って何からの自由?
  • なぜ彼女はウィルを受け入れたのか?

などなど

に焦点を当てても

1時間ぐらい話せてしまいます。



あなたは、ウィルの旅立ちを、

「個人の勝利」として観るだろうか。

それとも、「格差の証明」として観るだろうか。

あるいは、傷ついた自分を自分のせいだと思い込み、周囲に攻撃的な態度をとりまくっていた青年が、自分のせいではないことを知り、周囲を受け入れようとする物語なのでしょうか?




大学入試現代文や小論文ってそういうことを問いかけてきますよね。





この記事を書いた人
光庵良仁

個別指導塾Willbe塾長(代表)
光庵 良仁
(コウアン ナガヒト)

●1983年6月17日生
●赤穂市出身
●赤穂高校卒
●立命館アジア太平洋大学卒

2019年3月兵庫県赤穂市に「個別指導塾Willbe」を開校。Willbe理念は「赤穂市に最高の大学受験環境を」。

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