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高村光太郎の詩 

小学生~低学年~





小学生音読教材をゆるゆる更新中。

私はユーチューバーにはなれません。

彼らの企画力は凄いと実感するひびでございます。



さて、今日は「高村光太郎」です。



高村 光太郎の詩 【道程】【智恵子抄】など


道程<高村光太郎>

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出来る

ああ、自然よ

父よ

僕を一人立ちにさせた廣大な父よ

僕から目を離さないで守る事をせよ

常に父の気魄を僕に充たせよ

この遠い道程のため

この遠い道程のため



——————–


私の進もうとしている芸術や人生には目的地であるという具体的なものは見えてこない。

私が進んできた後に新しく自ら開拓してきた道が出来てくる。

ああ 父なる自然よ、私を私を甘やかさずに、突き放して、一人立ちにさせてくれた広く大きい父・自然よ。

私から目を離さないで見守り、励ましてください。常に父・自然の気魄を私に充たしてください。

この長い未来の遠くけわしい道のりを生きぬいて行くために…






http://www.kangin.or.jp/learning/text/poetry/s_D3_04.html




高村光太郎は、大正~昭和を生きた彫刻家だそうです。

なんでも彫刻家としてヨーロッパ留学したときに「ロダン」に影響をうけたとかなんだとか。

「僕の前に道はない。」の意訳に「芸術の道」と書かれているのはそういう背景があるようです。




あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ、


ほんとの空が見たいといふ。

私は驚いて空を見る。

桜若葉の間に在るのは、

切つても切れない

むかしなじみのきれいな空だ。

どんよりけむる地平のぼかしは

うすもも色の朝のしめりだ。

智恵子は遠くを見ながら言ふ。

阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に

毎日出てゐる青い空が

智恵子のほんとの空だといふ。

あどけない空の話である。






「あどけない話」を始めて読んだとき「智恵子」は高村光太郎の娘さんのことなのだと思って読んでおりました。

東京の街の空が曇っており、青空をみたことがない。。

そんなことなのかな。。。


と。


でも実はそうではなく、


高村光太郎と高村智恵子は夫婦だったようです。

智恵子も「画家」でしたが、後に精神に異常をきたし、入院生活を余儀なくされたのです。入院生活の日々は「こんなきれいな花、こんな見事な蟹、こんなおいしそうな果物」とすべて光太郎に語りかける「愛のうた」「日々の報告」だったようです。高村光太郎は智恵子を愛し続け、智恵子に関わる詩を多数創作し、詩集にまとめたのが「詩集:智恵子抄」で「あどけない話」はその中の一説です。


それを知ると、、、若干、、、聞こえ方が変ってきます。


阿多多羅山は智恵子の郷里である福島にある山なんだそうです。



郷里にある「ほんとうの空」を想起し、「本当の空」を見ていないと生きている気がしない、というくらいに大事だと智恵子が感じている(と光太郎は感じた)。



「空」ほど物資文明、経済社会からほど遠いものはなく、そうした物や金と関係のないものに、全身全霊で恋焦がれることの健気さ、哀しさを光太郎は痛いほど感じているのでしょう。

智恵子の純粋さは、光太郎にとって精神の支えであると同時に、哀しみの根源でもあるようです。



純粋であることは壊れることだ、という悲劇を、光太郎は智恵子を通じて体験してしまったのです。

https://kazahanamirai.com/takamurakotaro-adokenaihanashi.html




とはいいつつ。。。


「詩」「アニメ」「映画」の楽しみ方はそれぞれで良いはずですので、感じたままで良いのかなとは思います。









さういふ友

 黙つてゐても心の通じる、


 いいも悪いも両手に持つ、


 さういふともを持つのはいい。


 少しのびた無精ひげを見ながら、


 東京湾の風の話をきいたり、


 山の木魂の話をしたり、


 ふところから本をだしたり、


 そんな話のあひだに、一足づつ、


 あの天文学がじりじり進む。


 どういふ軌道が真実か、


 どういふ現象がシネクワノンか、


 どういう数理が精確か、


 無口に燃える学問を


 さういふ友は置いてゆく。


 さういふ友が満ちればいい。


 この世にとつて自分自身が


 さういふ友であればいい。


 七里けつぱい、


 やくざな思いはこの頭から断罪してくれ。


———————-け
※けつぱい  結界
※七里結界
 仏教用語。仏教修行を妨げるモノ「魔障」を七里四方に結界を設けること。密教由来の空海は、高野山建立にあたってこの結界の法を修したと言われている。「阿・云」にもそんな描写がありましたね。


※シネクワノン
 ラテン語で「不可欠なもの」という意味。わざわざ「シネクワノン」という言い方をしているため、何かしらの抽象性があると思われるが、現在、勉強中笑













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