「現代文はセンスですか?」
そう聞かれることがあります。
確かに、なんとなく読めて、なんとなく選べる子もいます。
けれど、それは“才能”なのでしょうか。
私は違うと思っています。
それは背景知識の差です。
前回までは前近代から近代への歴史の流れを確認しながら、「共同体と個人」「自然と人間」といった現代文あるあるをお話ししてまいりました。
今回は、20世紀へと少し時代を勧めながら「西洋近代化とその他の社会」といったあるあるをお話ししてまいります。
理系の方も「物理の発展」「数学の発展」といったテーマでも同じような流れを扱うことがあります。よければhttps://ako-juku.com/gendaibun-2/から読み進めていただきますと、物理のミクロな世界を理解できる助けになるかもしれません。
近代化西洋とその他の社会
現代文でよく出るテーマ。
それが、
「西洋近代」と「それ以外の社会」です。
一見、歴史の話に見えますが、要は「ものの見方」の話です。
中学歴史では、「ものの見方」を理解するために歴史を学んだと言っても過言ではありません。
以下は「現代文あるある」としてお読みください。途中で登場する「オリエンタリズム」「文化帝国主義」といった言葉もあるあるです。
あまりにも単純化しすぎている点などご容赦いただいて、ざっくりとご理解ください。
西洋=進歩、その他=遅れている?
西洋=進歩、その他=遅れている?
まず最初に出てくるのがこの構図。
- 科学
- 産業革命
- 民主主義
- 個人主義
これらを生んだのが西洋近代。
一方で、
アジアやアフリカは「伝統的」「前近代的」「未開」と描かれる。
奴隷貿易の歴史をみると「人権」といった言葉を生み出した西洋社会がいかに「西洋人=人間」だと捉えていたかが分かりますよね。このことに関しては奥深いので割愛します。
つまり、「遅れている」と描かれるのです。
でも本当にそうでしょうか?
ここで筆者は、「進歩」という言葉を疑い始めます。
近代化=分ける思考
西洋近代の特徴は、
- 主体/客体
- 自然/人間
- 理性/感情
- 公/私
と、世界を分けることでした。
この分離が科学を発展させました。
たとえば
ルネ・デカルト の心身二元論。
覚えていますか?
私(精神)と自然(物体)を分ける発想。
ここから「客観的」という考え方が広がっていきます。
しかし、分けすぎたのでは?
分けることで世界は理解しやすくなった。
でも、
- 自然破壊
- 植民地主義
- 文化の均質化
が進んだ。
「西洋的価値観」が世界基準になった結果、
他の文化や社会の価値観は
「遅れている」とみなされる。
本当に一つの価値観だけで測ってよいのか?
という問いが立ち上がります。
その他の社会の知恵
その他の社会の知恵
ここで筆者は、対立をひっくり返します。
たとえば、
- 自然と共生する暮らし
- 共同体重視の価値観
- 循環型社会
これらは「遅れている」のではなく、
近代の限界を補う知恵ではないか。
つまり、
西洋近代 vs その他
ではなく、
異なる世界観の並存
という視点へ移ってまいります。
文化人類学が崩した「進歩」の物語
19世紀の西洋では、
社会は
未開 → 野蛮 → 文明
と一方向に進む、と考えられていました。
今ではちょっと想像ができません。
西洋が最も進んでいる。
その他の社会は“途中段階”。
こうした見方が、植民地主義の正当化にもつながりました。
第2次世界大戦が終わっても尚「発展途上国」「開発途上国」「後発開発途上国」といった言葉の論争は続くのです。
しかし、文化人類学が登場する
20世紀に入り、
文化人類学が発展します。
代表的なのが
クロード・レヴィ=ストロース。
彼は言いました。
未開社会は未熟なのではない。
私たちとは異なる論理を持っているだけだ。
これは革命的でした。
革命的と表現せざるをえないことに驚きを感じてください。
社会の上下など存在しないって当たり前ですよね?
「交換」という視点
文化人類学が示した大きな発見は、
社会は「交換」で成り立っている
ということ。
たとえば、
贈り物。
結婚。
儀礼。
これらは単なる物のやりとりではありません。
「関係」のやりとりです。
マルセル・モースの発見
マルセル・モース は
『贈与論』でこう述べました。
贈り物は、
- 与える義務
- 受け取る義務
- 返す義務
によって社会をつくる。
市場経済のような「利益交換」ではなく、関係を維持するための交換だと。
ここが重要
西洋近代は、
効率
合理性
生産性
を重視しました。
しかし文化人類学は、
関係性
循環
象徴的なやりとり
を重視する社会を明らかにした。
つまり、
進歩の一本道ではない。
別の合理性がある。
といったことを述べたのです。
交換や贈与といった言葉も重要です。
上記ブログにおいて、「お金の価値」について触れましたが、
交換/贈与
といった概念は金融/経済を語る上でも登場してまいります。
お金は「交換」を加速させた道具
近代経済では、
お金=等価交換の媒介
です。
しかし実は、
お金も「信頼」という贈与的関係の上に成り立っています。
- 紙幣はただの紙
- 価値を信じているから通用する
つまり、
市場経済の奥にも
関係性(贈与的要素)があるのです。
矛盾が生まれるとすれば
もし私が
「贈与は良い」「交換は悪い」
と書いていたら「贈与と交換」の関係は矛盾します。
新しい疑問が生じるのです。
近代は交換(等価・効率)を重視しすぎたのではないか?
という問いです。
交換だけでは社会は成り立ちません。
なぜなら、交換は「その場かぎり」で完結するからです。
お金を払えば関係は終わる。
しかし社会は、
終わらない関係の上に成り立っています。
では、「信用」は何から生まれるのか。
信用は、
繰り返しのやりとりから生まれます。
約束を守る。
裏切らない。
すぐに得にならなくても関係を切らない。
つまり、
時間の積み重ねです。
お金は信用を測る道具にはなりますが、
信用そのものを生み出すわけではありません。
信用は、
交換ではなく、
関係の持続から生まれるのです。
誰が信用を保証するのか??といった壮大なテーマに繋がっていきます。
対立を超える
対立を超える
最後はこうなります。
近代を否定するのではない。
しかし、
近代だけが正しいとも言えない。
重要なのは、
- 近代の理性
- それ以外の社会の関係性
をどう組み合わせるか。
「データか、現場感覚か」
少し乱暴ですが「理性」と「関係性」は、学校でも企業でもあります。
数字は伸びている。
でも現場は疲弊している。
テストの点数は上がっている。
でも子どもは考えなくなっている。
これは、
近代の理性(数値・客観)
vs
関係性(現場・感覚)
の対立です。
どちらかではなく、
数字で把握しつつ、
現場の声を捨てない。
ただ、「ものの見方」は変化すれども「正しい方法」「正しい価値観」といったものが単純ではなくなっているため、
だれも正解っぽいものを見つけることが出来ていないことに、
世の中の苦しさがあるのかもしれませんね。
関連用語
20世紀。
第1次世界大戦、第2次世界大戦を前後に、文化人類学でふれた以外にも、新しい「ものの見方」が登場してきます。
オリエンタリズムという視点
パレスチナ系アメリカ人の思想家
エドワード・サイード は、
オリエンタリズムという言葉でこう指摘しました。
西洋は「東洋」を、
・神秘的
・遅れている
・非合理的
というイメージで語ってきた。
つまり、
「私たちは進んでいる」
「彼らは遅れている」
という構図の中で世界を見てきたのではないか。
知識のかたちで、
学問のかたちで、
制度のかたちで広がった。
と指摘しています。
文化帝国主義
さらに言えば、
西洋の価値観が
経済・メディア・教育を通して広がることを
文化帝国主義と呼びます。
武力ではなく、
価値観が支配する。
- 英語が世界標準になる。
- ハリウッド映画が世界に流れる。
- 西洋的な成功モデルが基準になる。
気づかないうちに、「それが普通」になる。
少し乱暴ですが、いまもなお、日本ではそういった議論がうごめいていますね。







