現代文の評論文を読んでいると、ごくふつうの顔をして、こんな言葉が出てきます。
「他者」
……?
「ただの『他人』のことでしょ?」
そう思って読み飛ばすと、
たいてい痛い目を見ます。
現代文でいう「他者」は、街ですれ違う「その他大勢の人」という意味ではありません。
もっと重くて、
もっと厄介な意味がこめられています。
「」が付いている場合は、
特に注意してください。
今回は、この「他者」を、限界まで噛み砕いて解説していきます。
まず「脳内変換」してしまおう
意味のコアは、たった一つだけ覚えればOKです。
他者
= 「自分には、どうやっても理解しきれない相手」
ポイントは、「理解しきれない」のところです。
「他人」が、ただの「自分以外の人」だとしたら、「他者」は、自分の頭の中にスッポリ収まってくれない相手のことです。
「えっ、自分の親友は理解できるけど?」
「えっ、分かり合えないなんて、冷たい」
そう思いますよね。
その違和感こそが、今日のスタートラインです。
小難しそうな人が、小難しい顔して「他者」と言ってるときは、結構、暖かいんです♪
「わかったつもり」のあぶなさ
たとえば、あなたの仲のいい友だち。
「あいつなら、こう言ったらこう返してくるな」
「これを見たら、ぜったい笑うな」
だいたい予想がつきますよね。
でも、その予想が外れる瞬間があります。
急に怒り出したり、
ずっと悩んでいたことを打ち明けられたり、
「えっ、そんなこと考えてたの?」とびっくりさせられたり。
そのとき、あなたはこう気づくはずです。
「自分は、こいつのことを
『わかったつもり』になっていただけだった」
この「わかったつもり」を、
ガラガラと崩れさせてくれる相手。
これこそが「他者」です。
逆に言うと、
自分の予想どおりにしか動かない相手は、ほんとうの意味では「他者」ではありません。
それは、あなたが勝手に自分の頭の中につくった “そいつの像” 、
つまり”思い込み”にすぎないからです。
レヴィナスの「顔」という考え方
この「他者」を、哲学のレベルまで突き詰めた人がいます。
レヴィナスという哲学者です。
名前は覚えなくてもいいですが、考え方は、いろんなところで使われておりますので紹介します。
レヴィナスは、
他者のことを「顔」と呼びました。
ここでいう「顔」は、目鼻立ちのことではありません。
こちらが「こういうやつだ」と勝手に決めつけようとしても、
そのワクからはみ出して、
こちらに語りかけてくるもの。
それが「顔」です。
たとえば、目の前の人と目が合った瞬間。
「あ、この人を雑にあつかっちゃいけないな」
と、なぜかゾクッとすることがありますよね。
レヴィナスに言わせれば、
それは相手の「顔」が、
「私を、モノみたいに自分の都合で使うな」
と、こちらに 命令してきている のです。
他者は、自分が「理解して」「コントロールできる」ような、ちっぽけな存在ではない。
むしろ、こちらの傲慢さに「ストップ」をかけてくる、絶対的に “向こう側” の存在なのだ——。
これが、レヴィナスのいう「絶対的な他者」です。
現代文あるあるとリンク!
「他者」は味方チームの言葉
当ブログの「現代文キーワード辞典」を読んでくれた人なら、もうピンときているはずです。
そう、「他者」は 味方チーム(筆者が推しがちな側) の言葉です。
なぜか。 ここで、敵チームのボス「近代的自我」を思い出してください。
- 敵チーム:近代的な「私」
理性をつかえば、
世界も他人もぜんぶ理解できる。
すべては「この私」が中心だ。 - 味方チーム:他者
でも、
ぜったいに理解しきれない相手がいる。
「私」は世界の中心なんかじゃない。
つまり「他者」は、
「自分はなんでもわかる、なんでもできる」とイキっている近代的な「私」の鼻を、ポキッと折るための言葉なのです。
だからこそ、
評論の筆者は「他者」が大好きです。
相手のことを理解しようとするときに「他者」であることを前提にしているからこそ、敬意を払えたり、尊重出来たりすることが出来ると言ってもいいかもしれません。
特に、
「他者」と言う言葉が使われている際は、「あなたと他人の相互作用」といった意味合いが筆者の言いたいことになりがちです。
「自分」って1人でいるようだけど、あなたはいろんな人の影響をうけて、「自分」を形成しているんだよっっなど。
「他者」を使った予測リーディング
超実践編
ここまで分かると、入試本番で「予測リーディング」ができます。
本文に「他者」という言葉が出てきたら、頭の中で「他者アラート」を鳴らしてください。 筆者の言いたいことは、ほぼ次のどれかです。
- 他者を「わかったつもり」になるのは、
傲慢だ - 理解しきれないからこそ、
他者は尊重すべきだ - 他者と出会うことで、
「私」ははじめて変われる
逆に、選択肢を選ぶときは注意です。
「相手のことを完全に理解し、わかり合えた」
「他者を自分と同じ仲間として一つにまとめる」
こういう “キレイにまとまった” 選択肢は、”罠” であることが多い。
筆者はむしろ、「完全には理解できない。でも、だからこそ大事にする」という、モヤッとした方向を主張しているからです。
「他者」と他者が入り混じる
「他者」(術語としての他者)と、ふつうの「他者=他人」が同じ文章の中で入りまじって使われる、という評論文のあるあるです。
それっぽい文章を書いてみました。
吉見俊哉さんが言いそうなこと笑
都市を歩けば、
私たちは無数の他者とすれ違う。
駅の雑踏、コンビニのレジ、満員電車。
そこにいる他者の大半は、名前も知らず、二度と会うこともない、文字どおりの「赤の他人」である。
私たちは彼らを、風景の一部のように処理しながら通り過ぎていく。
だが、
ここで立ち止まって考えてみたい。
私たちは本当に、その他者を「見て」いるのだろうか。
グローバル化した都市の消費空間は、他者をあらかじめ理解可能なカテゴリーへと振り分ける。
「観光客」「店員」「外国人労働者」
こうしたラベルを貼った瞬間、目の前の他者は、私の予測の枠内におさまる安全な存在へと変換される。
私はもはや、その人を一人の他者として迎え入れているのではない。私の都合のよい物語の登場人物として、消費しているにすぎない。真の他者とは、本来そうした枠からはみ出してくるものだ。
私の理解を裏切り、私の世界の自明性を揺さぶる者。
だからこそ私たちは、
無意識のうちにそれを記号へと押し込め、ただの他人へと飼いならそうとする。
都市とは、他者を他人へと変換しつづける巨大な装置なのかもしれない。
この「入りまじり」を読み解くポイントを補足します。
同じ「他者」という二字でも、文中で二つの意味が行き来しています。
「赤の他人」「ただの他人」と言うときは日常語の他者(=自分以外の人、風景)で、
これは筆者にとって批判の対象です。
一方「真の他者」「一人の他者として迎え入れる」と言うときは術語の他者(=理解しきれない、尊重すべき相手)で、これが筆者の推す味方チームです。
この文章で書いたことは、分かりやすい「レッテル」を貼った瞬間に、尊重する、相互理解に務めようとする他者ではなくなるよ、といったことです。
まとめ
難しい言葉は、世界を見る「新しいメガネ」。
他者
= 自分には理解しきれない、
だからこそ尊重すべき相手
「わかったつもり」になった瞬間、その相手はもう「他者」ではなくなります。
「わからない」を、こわがらない。
むしろ「わからないままで、ちゃんと大事にする」。
それが、現代文の筆者たちが「他者」という言葉にこめた、いちばんのメッセージなのです。
2026年度現代文は難しかったと言われています。
(2025年度に比べて10%程度正答率が下がっていたと記憶しています。)
おそらく「他者」という意味を知っていれば、より読みやすくなるのではないでしょうか?
こちらの記事。
少し2026年度現代文にも触れていますので、よければお付き合いください。









