現代文の評論文を読んでいると、突然こんな言葉に出くわすことがあります。
「形而上学(けいじじょうがく)」
画数も多くて、いかにも「難しくて偉い言葉です!」という顔をしていますよね。
この言葉が本文に登場した瞬間、
「うわ、もう無理。何言ってるか全然わからない……」と心の中でシャッターを下ろしてしまう受験生も多いのではないでしょうか。
正直に告白すると私も実は、
よく分かっていません。
でも、安心してください。
最初にはっきり言っておきます。
この言葉の厳密な哲学的な意味なんて、分からなくてもまったく問題ありません!
現代文のテストを解く上で、「形而上学とは何か、100字以内で説明せよ」なんて問題は絶対に出ません。大学の哲学科に進まない限り、一生定義を暗記する必要もありません。
ただ、この言葉の「ふんわりとしたニュアンス」を知っておくだけで、文章を読むときのストレスが劇的に減り、筆者の言いたいことがスッと頭に入ってくるようになります。
今回は、気になっているけれど誰にも聞けない「形而上学」という言葉について、高校生向けに限界まで噛み砕いて解説します。
「形而上」と「形而下」の違い
「形而上学」という言葉を攻略するには、ペアになるもう一つの言葉と一緒に覚えるのが一番簡単です。
それは、「形而下(けいじか)」です。
① 形而下=「目に見えるモノ」
形而下の「形」は、
そのまま「かたち」のことです。
つまり、「形があるもの」「手で触れるもの」「目に見えるもの」を指します。
あなたが今持っているスマホ、勉強している机、スーパーで売っているリンゴ、あなた自身の肉体、そしてお財布の中のお金……これらはすべて「形而下」の存在です。
これを研究する学問の代表が「物理学(Physics)」などの自然科学です。
(物理も目に見えませんけど?と思って方!確かに、その通りなのですが、一旦忘れてください😢)
② 形而上=「目に見えないモノ」
対する「形而上」は、その逆です。
「形がないもの」「手で触れないもの」「目に見えないけれど、確かに存在するもの(とされているもの)」を指します。
愛、正義、魂、神、そして「宇宙の根本的なルール」や「生きる意味」などです。 これらは重さを量ることも、定規で長さを測ることもできませんよね。
英語で形而上学は「Metaphysics(メタフィジックス)」と言います。 Physics(物理学=目に見える世界)の、Meta(超えたところ・裏側)にあるものを探求する学問、という意味です。
さあ、まずはここまでをまとめましょう。 もし現代文のテスト中に「形而上(けいじじょう)」という言葉が出てきたら、頭の中でこう変換してください。
形而上=「目に見えない、なんか根本的で抽象的なこと」
たったこれだけでOKです!
現代文での「形而上学」の使われ方
(実戦編)
言葉の意味がわかったところで、実際の入試問題(評論文)で、筆者がどういうテンションでこの言葉を使ってくるのかを見てみましょう。
(分かりやすさと雰囲気重視のため、ガチ勢からは正確性を欠くと怒られます笑)
大きく分けて、2つの実戦パターンがあります。
「目に見えるモノ(科学・経済)」への批判
パターンAは、「目に見えるモノ」への批判です。
近代以降の現代社会は、科学技術が発達し、「目に見えるデータ」や「お金(経済)」ばかりが重視されるようになりました。 つまり、世の中全体が「形而下(目に見えるモノ)至上主義」に染まっている状態です。
これに対して筆者が、「人間にはもっと大切なものがあるはずだ!」と主張するときに、形而上学という言葉を持ち出します。
「現代人は、数値化できる利益(形而下)ばかりを追い求めている。しかし、生命の尊厳や生きる意味といった、形而上学的な問いを忘れてはいけない。」
あなたの脳内変換:
ああ、「目に見えない根本的なこと」を大事にしろって言ってるのね!
「頭でっかち」への批判(哲学的な文章)
パターンBは、「頭でっかち」への批判(哲学的な文章)です。
現代文でより頻繁に、そして少し厄介な形で登場するのがこちらのパターンです。 逆に、「形而上学」を悪い意味(ディスり)として使うパターンです。
西洋の哲学者は、大昔からずっと「神」や「絶対の真理」といった、目に見えない完璧なもの(形而上)ばかりを追い求めてきました。 でも、現代の思想家たちはそんな過去の偉人たちをこう批判します。
「そんな『絶対の真理(形而上)』なんて、頭の中で勝手に作り出した妄想じゃないの? もっと現実のドロドロした生活を見ようよ!」
「西洋の伝統的な形而上学は、絶対的な『真理』をでっちあげ、現実の多様性を無視してきた。」
あなたの脳内変換:
ああ、「頭の中だけで考えた、現実離れした理屈」
「イデア? 何それ美味しいの?」って批判してるのね!
「イデア」と「形而上学」の切れない関係
さらなる実践編
さて、先ほどのパターンBの脳内変換で、さりげなくこんなツッコミを入れました。
脳内変換:
ああ、「頭の中だけで考えた、現実離れした理屈」って批判してるのね!
(イデア? 何それ美味しいの?)
ここで出てきた「イデア」という言葉。
倫理で登場致します。
まったく美味しくありません。
実はこれこそが、西洋の形而上学の「大ボス」であり、現代文の最重要キーワードの一つなのです。
もう少しだけ深掘りして、現代文を読み解く最強の武器(予測リーディング)を手に入れましょう。
① そもそも「イデア」って何?
イデアとは、古代ギリシャの哲学者プラトンが言い出した概念です。
限界までざっくり言うと、「現実世界には存在しない、頭の中(天界)にある完璧な設計図」のことです。
(倫理で習った時は、「だから何?」って感じがしてしまいますね笑)
例えば、あなたがノートにコンパスで「円」を描いたとします。
しかし、どんなに精巧に描いても、顕微鏡で見れば線はガタガタで、絶対に「完璧な円」ではありませんよね。
現実世界には、完璧な円などどこにも存在しません。
でも、私たちは頭の中で「完璧な円(=円のイデア)」を想像し、理解することができます。
だから、完璧な円に美しさを追い求める人もいるのでしょう。
円というのは、理系文系、両者にとって重要な概念であり💦
宗教を見わたしてみても「円」は神聖なものとして扱われていたりします。
日本の数学では、円を神社に奉納していたりしますし、、、
プラトンは、
「現実世界にあるモノ(形而下)は、すべて不完全なニセモノ(影)にすぎない。目に見えない『イデア(形而上)』の世界にこそ、完璧な本物があるんだ!」
と考えました。
これが、西洋の形而上学の原点です。
② 現代文の筆者は、なぜ「イデア」を嫌うのか?
この「イデア論」から、西洋の伝統的なある「クセ(二項対立)」が生まれました。
それは、「目に見えない完璧な精神(形而上)のほうが、目に見える不完全な肉体や現実(形而下)よりもエライ!」という考え方です。
精神(理性・イデア) > 肉体(現実・ドロドロしたもの)
しかし、現代文の評論文を書くような最先端の思想家たちは、この考え方が大嫌いです。
「完璧なイデアなんて、頭でっかちな妄想だろ! 人間はもっと不完全で、感情に振り回されて、身体を持って泥臭く生きている生き物じゃないか!」
こうして、現代の筆者たちは、伝統的な「形而上学(イデアをありがたがる態度)」を徹底的に批判するようになったのです。
③ 超実践!「形而上学」で予測リーディング
ここまで分かると、入試本番で強烈な「予測リーディング」ができるようになります。
この先、あなたはきっとAって言うんでしょ?
分かってますよ。
はい、Aって言った~~
あれ、でもAと違うんかいっ
本文中に「形而上学(的なもの)」や「イデア」を批判する言葉が出てきたら、その瞬間に筆者の「推し(本当に言いたいこと)」が確定します。
- 筆者がディスっているもの(敵)
形而上学、イデア、絶対的な真理、純粋な理性、頭の中だけの理屈 - 筆者が推しているもの(味方・正解)
現実の生活、不完全な身体、多様性、無意識、ドロドロした感情、ノイズ
つまり、
「筆者は形而上学を批判しているな」と気づいた瞬間に、「あ、この人は『もっと現実の生々しい身体や多様性を肯定しようぜ!』って言いたいんだな」と、
文章のゴールがはっきりと見えてしまうのです。
「現代文読解あるある」とリンク!
「形而上学」はどのステージの敵か?
ここで、当ブログの超人気シリーズ「現代文読解あるある(全13回)」を読んでくれた皆さんなら、この予測リーディングの精度を極限まで高めることができます。
実は、現代文の思想史の進化は、言い換えれば「形而上学(イデア)というラスボスを、どうやって倒すか」の歴史なのです。
思想(考え方)のステージごとに、筆者が「形而上学」をどう扱っているかを見てみましょう。
👑 ステージⅠ(近代の誕生):形而上学の「大ファン」
- プレイヤー:
デカルトなどの近代思想家 - スタンス:
「人間の理性こそが最高! 目に見える肉体(形而下)なんて機械と同じだ。目に見えない絶対の真理(形而上)を理性でつかみ取ろう!」 - 解説:
この時代は、まだイデアや形而上学が「絶対的な正義」として崇められていました。
🥊 ステージⅡ(身体と無意識):形而上学への「反逆」
- プレイヤー:
フロイト(無意識)やメルロ=ポンティ(身体論) - スタンス:
「いやいや、頭の中の理想(イデア)ばっかり語って、現実のドロドロした身体や無意識を無視するな! 人間はもっと不完全な生き物だ!」 - 解説:
ここから、形而上学への強烈なカウンターパンチが始まります。現代文の評論文で一番よく出るのが、このパターンの批判です。
💣 ステージⅣ(脱構築):形而上学の「完全解体」
- プレイヤー:
デリダ(ポスト構造主義) - スタンス:
「西洋人は2000年間ずっと『形而上(精神・イデア)> 形而下(肉体・現実)』という二項対立のルールに縛られてきたね。そのルール自体をバラバラに解体(脱構築)してやろうぜ!」 - 解説:
実は、デリダが「脱構築」という必殺技を使って壊したかった最大の標的こそが、この「西洋の形而上学」だったとも言えます。
いかがでしょうか。
「あ、この筆者はステージⅡの視点から、形而上学(頭でっかちな理性)を批判しているな」 「お、デリダの脱構築を使って、形而上学的な二項対立をひっくり返そうとしているな」
このように、自分が今「現代文読解あるある」のどのステージの文章を読んでいるのかを教えてくれる、強力な「道しるべ(GPS)」になるのです。
まとめ
難しい言葉は、筆者からの「サイン」
「形而上学」や「イデア」という言葉は、確かに、ただの難しい学術用語です。
それは、過去の偉大な哲学者たちが「世界ってこうなってるんじゃない?」と提案し、現代の思想家たちが「いやいや、それは違うだろ!」とバチバチに殴り合ってきた「思想のプロレス技」の名前なのです。
- 形而上 = 目に見えない根本的なこと
- 形而下 = 目に見える現実のモノ
- イデア = 現実にはない完璧な理想像
現代文の評論文には、日常では絶対に使わないお堅い言葉がたくさん出てきます。
でも、それらの言葉は決して、あなたをいじめるためにあるわけではありません。
筆者たちは、「目に見えない複雑な世界を、なんとか言葉にして誰かに伝えたい」と必死に考え抜いた結果、そうした専門用語を使わざるを得なかっただけなのです。
次に模試や入試で「形而上学」という言葉を見かけたら、ぜひ心の中でガッツポーズをしてください。
「おっ、筆者がまた頭でっかちな西洋思想にプロレス技をかけようとしているな」と。
難しい言葉にビビらず、脳内変換を駆使して、現代文を攻略していきましょう!
なぜ、難しい用語が存在するのか?
最後に、ひとつだけ皆さんにお伝えしたいことがあります。
なぜ現代文の評論文には、こんなに難しくて厄介な用語が存在するのでしょうか?
例えば、この記事の第4章で、私は分かりやすさを最優先して「デカルトは形而上学(イデア)の大ファン」と説明しました。
しかし、この書き方、大学の哲学の専門家が見たらおそらくめちゃくちゃ怒られます(笑)。
たしかにデカルトは形而上学を重視した哲学者ですが、「大ファン」という日常語を使ってしまうと、「古代のプラトンのイデア論をそのまま熱烈に応援していた」といった、厳密には間違ったニュアンスや多くの誤解を生んでしまうからです。
ここに、難しい言葉が存在する理由があります。
私たちが普段使っている日常の言葉(ヤバい、エモい、ファン、好き、など)は、便利で分かりやすい反面、意味が広すぎて、人によって受け取り方がバラバラになってしまうのです。
思想家や現代文の筆者たちは、「目に見えない複雑な世界」や「誰も気づいていない社会の真実」を、なんとかして読者に伝えようと必死に考え抜いています。
だからこそ彼らは、読者に少しの誤解も与えないように、針の穴を通すような正確さで「専用の言葉」を作り、それを使わざるを得ないのです。
「形而上学」といういかつい専門用語も、彼らが「どうしても正確に伝えたい!」と葛藤した結果生まれた、精密な道具(プロレス技)にすぎません。
これらの具体例をもう少しお話いたします。
①「他人」→「他者(たしゃ)」
日常語の「他人」は、「自分じゃない人」「赤の他人=どうでもいい人」くらいの軽いニュアンスですよね。
でも思想家が使う「他者」は、まるで意味が違います。これは「自分の頭では絶対に理解しきれない、自分の都合のいいように解釈できない存在」を指す、ずっしり重い言葉です。
もし「他人」と書いてしまうと、「ふーん、知らない人ね」で流されてしまう。
でも筆者が言いたいのは「自分の常識が一切通じない、不気味で、だからこそ尊重すべき相手」なんです。
この「理解できなさ」を一文字も逃さず伝えるために、わざわざ「他者」という専用の言葉が要るわけです。
②「違い」→「差異(さい)」
「AとBの違い」と言うと、私たちは「最初にAとBがそれぞれ存在していて、あとから見比べている」イメージを持ちます。
ところが「差異」は逆。
「違いがあるからこそ、AとBが初めて成り立つ」という、順番をひっくり返した発想です。
たとえば「犬」という言葉は、「猫でも狼でもない」という”違い”があって初めて意味を持つ。中身が先にあるのではなく、差異が先なんです。
「違い」という日常語のままでは、この”順番の逆転”という肝心のスリルが伝わらない。だから専用語の「差異」が必要になります。
③「決まり・ルール」→「構造」
「ルール」と言うと、「誰かが決めた、紙に書いてある、守るか破るか選べるもの」に聞こえます。
でも「構造」は、誰が決めたわけでもないのに、誰も気づかないうちに私たち全員を動かしている見えない仕組みのこと。
破ろうにも、そもそも見えていないから破れない。「ルール」だと”作者がいて、選べる”感じが残ってしまうので、その無意識さ・逃げられなさを表すために「構造」という言葉が要るんです。
さらにおまけに、
- 「気持ち・本音」→「無意識」
(フロイトの回):本音は頑張れば言葉にできるが、無意識は”自分でも気づけない”ことが定義。日常語は「自覚できる」前提になってしまう。 - 「思い込み」
→「イデオロギー」
思い込みは個人のうっかりミスの響き。イデオロギーは社会全体が”当たり前”として共有している、本人には見えない色眼鏡。 - 「ニセモノ・コピー」
→「シミュラークル」
コピーと言うと”本物(オリジナル)がどこかにある”前提になるが、シミュラークルは”本物のないコピー”を指す言葉。
分かりやすさの功罪
あ〜もう、用語って難しい。
そう思いましたよね。実は、これは現代文だけの話ではありません。
数学だって同じです。
定義には、厳密さが求められます。
たとえば、中学1年で習う「正負の計算」。 あれを「分かりやすく」説明するのは、実はものすごく難しいのです。
小学校では、かけ算をこう教わりますよね。 「かけ算とは、同じ数を何回も足すこと」。 3×2なら「3を2回足す」、つまり3+3=6。
とても分かりやすい説明です。
ところが、マイナスが出てきた瞬間、この説明が壊れます。 3×(−2)を同じやり方で読むと、こうなる。
「3を、−2回足す」……?
“−2回足す”って、何でしょう。
2回でも0回でもなく、マイナス2回。
日常の感覚では、どうやっても意味が取れません。
つまり、いちばん身近で分かりやすかったはずの説明そのものが、マイナスの前で矛盾を起こしてしまうのです。 身近な具体例で説明しようとすればするほど、どこかで必ず例外が顔を出す。
そう、 分かりやすい言葉を使えば使うほど、例外が生まれ、矛盾が顔を出す。
これは数学に限った話ではありません。 私たちが普段使っている言葉と、専門家が使う言葉とでは、意味がまるで違うこともよくあります。 かく言う私も、最近「企業の内部留保」という言葉の”ズレ”に、けっこう苦しめられました(笑)。
もちろん、受験には期限があります。 期限がある以上、その中で理解しておかなければならないことは、たしかにあります。 (だから正負の計算も、最後は「同じ符号どうしは+、ちがう符号どうしは−。そういうルール」と割り切って先に進んでいいのです。)
でも、 「難しい」と感じたときは、いったん忘れてしまっていいのだと思います。
無理に「分かりやすく」しようとして、かえって迷子になってしまうことは、本当によくあるからです。
今回お話しした「形而上学」も、忘れてしまって大丈夫。 大学入試のレベルなら、厳密な意味が分からなくても、何も困りません。
そしていつか、 あなたがもっと色々なことを知り、成長したとき。 「形而上学」という言葉の意味は、専門家が使うあの厳密な姿に、すこしずつ近づいてくるはずです。
そのときを、楽しみにしていてください。
〜「背景知識」を知れば、評論文はもっと読める 〜







