美術教師になりたいなら読むべき名著『美術教育の可能性』とは
「美術の先生になりたい」と思ったとき、
「美術の先生になった」とき、
ぶつかる問いがあります。
それは「そもそも美術って、なぜ学校で教えるんだろう?」というものです。
この記事では、その問いに正面から答える専門書『美術教育の可能性』(小松佳代子)の第1章を、中学生にもわかる言葉で要約します。
共通テスト2026年現代文は、「美術教育の可能性」の「『贈与』としての美術・ABR」(桜井あすみ)から出題されていました。
私も芸術論・建築論に対して苦手意識を持っています。
抽象度が一気に高まり具体的なイメージがわかないからです。
俄然、興味を持ってしまったので「『贈与』としての美術・ABR」が収録されている「美術教育の可能性-作品制作と芸術的省察」を買って、ちまちまと読み進めてみます。
美術という科目は、
体育同様に「美術家」を育てる科目なのか、
「美術」を通して何かを育てる科目なのか?
ちょっと興味があります。
興味が湧くのは、
所謂、勉強に置いて、「身体と理論」、「出来ると理解」がどちらが先なのか?
というものを突き詰めていくと、
芸術・美術の大切さのようなものを感じてしまうからです。
専門書ですから、
とても高校生や中学生に薦められるものではありませんが、
大学生として、こういった文章を読むことが求められているのは間違いありません。
また、芸術家ではなく「美術教師」を志すならば必要な論点のような気も致しました。
冒頭箇所だけ、出来る限り、要約しておきます。
第一章要約:美術教育の位置づけ(小松佳代子)
「美術の授業って、なんで必要なの?」を本気で考えた話
最近、学校の図工や美術の授業時間がどんどん減らされています。
「美術なんて受験に関係ないし」と思われがちで、
美術という教科がなくなるかも…?
という心配もあるくらいです。
明治時代からの歴史を辿ってみても、そんなに簡単に解決できる問題ではないのだけれど、
この章の著者は、「そもそも美術を学ぶ意味って何だろう?」を、まじめに考え直しました。
本当に、美術の時間が減っているのか?
ここでは、筆者ではなく、私の疑問を書いていきます。
そもそも、美術の授業はなくなりかけている?
私は本書の冒頭を読んだだけで「なくなるかも」なんて、大げさに聞こえてしまいました。
でも、少し調べて数字を見るとちょっと考えこんでしまいます。
現在、
中学校の美術の授業は、
1年生で年間45時間(週に約1.3時間)
2年生・3年生にいたっては年間35時間、
つまり週にたった50分?しかありません。
週50分?というのは、どういうことか。
絵の具を出して、描いて、片付けて……
それだけで終わってしまう時間です。
「あれこれ試して、失敗して、もう一回やってみる」という、
美術でいちばん大事なはずの試行錯誤の時間が、なかなか取れないのですね。
なぜ削られてしまうのか
理由は、わりとシンプルです。
学校の授業時間の枠は、決まっています。
そこへ、英語の早期化、プログラミング、探究学習……と、新しい学びがどんどん入ってきます。
でも、1日の時間は増えてくれません。
すると、どこかを削るしかない。
そして「受験に直結する国・数・英・理・社は削れない」という力が働くと、しわ寄せがどこへいくか
……という話です。
「美術や音楽は趣味の領域だから」と、削減のターゲットにされやすいのが現実です。
いえいえ個人的には、小学校の国語の時間が減っていることの方が問題でしょ?と言いたい笑
過去には高校のように「中学校の美術は必修をやめて選択制にしては」という議論が浮上したこともあったそうな。
おまけに、美術の先生は各校にたった1人、ということがほとんどです。
週1時間の授業でコマ数を埋めようとすると、その先生ひとりで全校生徒400〜500人ぜんぶの指導と成績つけを抱えることになります。
1学年80人でも多い方の赤穂市なら大丈夫そうですが笑
一人ひとりの作品とじっくり向き合いたくても、手が回らない。これも今、現場で問題になっていることのようですです。
補足:正確にはちょっと違います。
中学校の美術が週1コマ(中2・中3で年間35時間)まで削られたのは、今から25年ほど前、いわゆる「ゆとり教育」が始まった1998年の改訂のときでした。
その後、ゆとりが見直されて他の教科は授業時間を取り戻したのに、美術はそのまま。25年間、いちばん少ないままです。
つまり問題は「今まさに急に減っている」ことではなく、「ずっと底にいるのに、誰も引き上げてくれない」のです。
10年~20年前に中学生だった方が「自分のときも美術は週1だったな」と思うなら、その記憶はまったく正しいです。(私の時は、もうちょっとあったみたい。)
国は美術を「軽く見ている」わけではない
ここが、ややこしいところです。
「時間を削っているなら、国は美術を軽く見ているんだろう」と思いますよね。
ところが、文部科学省の方針(学習指導要領)を読むと、まるで逆なんです。
むしろ国は、これからの時代に美術はとても大事だ、と高く掲げています。
予測のつかないこれからの社会では、論理的に考える力だけでは足りない。
「よさや美しさを感じ取る力(=感性)」や「想像力」こそ大切になる——
文科省はそう位置づけています。
そして美術を通して、自分なりの意味や価値をつくりだす力を育てましょう、
と求めています。
理念としては、本当に立派ですね。
「高い理想」と「週50分」という、大きな矛盾
- 理想(建前)
美術は人間形成に欠かせない。
感性も思考力も表現力も、
美術で深く育てよう。 - 現実(時間割)
でも、もらえる時間は週1コマ。
「これほど大事だ」と言いながら、「週1時間でやってね」と言う。
国は美術を消そうとしているわけではありません。
けれど、限られた時間の取り合いの中で、美術の優先順位が低く置かれてしまっている——
だからこそ、「そもそも美術って、なぜ必要なんだろう?」と。
その問いに正面から答えてくれるのが、この本でした。
「美術が再評価されている」
ちなみに、「国が美術を重視している」といった話の流れで、違う方向で少しお話し致します。
最近、「STEAM教育」という言葉をよく聞きます。
これは、
- Science(科学)
- Technology(技術)
- Engineering(工学)
- Mathematics(数学)
- という理数系の学びに、Art(アート)を足したものです。
AIが発達し、正解のない問題が増えるこれからの時代には、理数系の論理だけでなくアートの発想が欠かせない——そういう考えから、世界中で注目されています。
日本でも文部科学省が推進しています。
「ほら、やっぱり美術は大事にされているじゃないか」と思いますよね。
ところが、ここに落とし穴があります。
一般に、STEAMでいう「A(アート)」は、じつは図工や美術という教科そのものを指していないことが多いのです。
文科省の文脈では、
この「A」は芸術に限らず、政治や経済といった幅広い教養まで含む、かなり広い意味
で使われています。
そして実際にSTEAMが行われる主な舞台は、美術の時間ではなく、「総合的な探究の時間」やプログラミング学習だったりします。
つまり、もてはやされている「A」(アート)は、必ずしも「美術の授業を増やそう」という話ではない。むしろ「美術は、理数系の学びを助ける役に立つ存在だから大事にしよう」という方向です。
これは結局、「美術は役に立つから大事」という考え方——あとで出てくる文脈主義——の、いちばん新しいバージョンなのです。
役に立つから大事にされる、というのはありがたい話です。
でも裏を返せば、「もっと役に立つ何か」が現れたら、あっさり後回しにされてしまう危うさも、同じだけ抱えています。
STEAMの追い風は、美術にとって救いであると同時に、新しい宿題でもあるのですね。
では、いよいよ、第1章の1節をまとめていきます。
第1節 美術教育の正当化論
「美術は役に立つから大事」派 vs 「美術にしかできないことがあるから大事」派
美術の教育を考えている「とある研究者」は、「美術が大事な理由」には大きく2つの考え方があると言いました。
①文脈主義
1つめは、
「美術は役に立つ」から大事だ。
そして、まわりが求めることをやるべきだ!
という考え方です。
どんな風に役に立つのか?
- 興味や関心を引き出す手助けになる (趣味になるかも?)
- 社会のルールによって抑え込まれていた気持ちを、自由に表現する場になる。ストレス発散?
- 「教育」の目的である「創造的に考える力」をのばし、よい学びの土台になる。絵を自由に描く。
- 国語や数学のような「頭で学ぶ教科」をちょうどよく補ってバランスをとる。例えば、数学で図を描くこと。
- 体や手の使い方(運動の調整)をうまくする。例えば、文字を書く前にクレヨンで絵を描くことで指先の発達を促す。
といったことの役に立つと言っています。
周りが求める事って何?
文脈主義というのは、「美術そのものの中に教育の理由を探す」のではなく、「まわりが美術に何を求めているか」から美術の役割を考える立場です。「まわり」というのは、「子ども」や「国家・社会」にあたります。
具体的にはこうです。
子どもの要求
「子ども一人ひとりが必要としていること」という意味です。
たとえば「自分の気持ちを表に出したい」「のびのび表現したい」といった、子ども側のニーズです。
さきほどの5つの理由のうち、②「おさえこんでいた気持ちを自由に表現する場になる」あたりが、これに応えるものです。美術が子どもの成長や心の発達を助ける、という発想ですね。
国家・社会の要求
社会や国の側が「教育にこうあってほしい」と求めること、という意味です。
たとえば「創造的に考えられる人を育ててほしい」「他の教科とのバランスをとってほしい」といった、社会全体の都合や期待です。
5つの理由のうち、③創造的思考や④他教科の補完あたりが、これに応えるものにあたります。
つまり文脈主義は、「美術は、子ども本人が求めることにも、社会・国が教育に求めることにも応えられるから役に立つ」と考える立場です。
「美術が役に立つ相手」を、個人レベル(子ども)と社会レベル(国家)の両面から示しているわけです。
ただし、
「とある研究者」は、分類してみたが「役に立つだけでは、美術を教える根拠としては弱い」と考えていました。
②本質主義
こちらは「役に立つかどうか」とは別に、美術だからこそできることに価値を見ます。
具体的にはこういうことです。
- 「ことばや理屈では言い表せない気持ちを、形にして表現できるのが美術だ」
- 「自分が感じた気持ちを、作品を通して他の人に伝えられるのが美術だ」
つまり、頭では説明しきれない感情を形にして、人から人へ伝える——
それが、算数にも理科にも国語にも出来ない、美術にしかできないことだ、という主張です。
文章によって人から人へ伝えることが出来ない?
と思った人、本書では様々な哲学者の意見を引用して、「正確に自分の考えを人から人へ伝えることが出来ない理由」が述べられています。
(もちろん、「美術だけが出来る事」だなんて傲慢だと言っていただいても構いませんよ。そのためには、筆者が言いたいことを正確に理解する必要はあります。)
(本書では触れられていませんが、ロラン・バルトの考え方なども、「国語」「文学」ではよく登場します。ただ、ここでは割愛しておきます。)
③哲学者たちの言い争い
他方で、
一見美術とは関係なさそうな哲学者たちもいい争っていました。
ある人は「美術にしかできない役割なんて、本当にあるの?」と疑い、反対に、ある人は「美術こそ学校の勉強の中心にすえるべきだ」と主張しました。
ここで、
本文では説明がほぼないので、「美学」の補足をしておきます。
「美学」というのは、たとえばこんな問いを考える学問です。
- そもそも「美しい」って、どういうことなんだろう?
- 芸術(絵・音楽・詩など)とは何だろう?
ふつうのものと何がちがうんだろう? - 人はなぜ、美しいものに心を動かされるんだろう?
- 良い作品と、そうでない作品の違いはどこにあるんだろう?
こうした「美」や「芸術」をめぐる問いを、感覚だけでなく理屈で筋道立てて考える人が、美学者です。哲学のなかの一分野なので、美学者は哲学者の仲間でもあります。
なぜこの節で「美学者」が大事か
美術の授業を「絵を描くだけの時間」で終わらせず、「美術って学問的にどういう意味があるのか」と裏づけてくれるのが、まさにこの美学者たちだからです。
アメリカではこういう美学者がしっかり関わったから、美術が『立派な勉強』として認められていった。
逆に日本ではその関わりが弱かった、というのが第2節の話のポイントになっているわけです。
アメリカと日本の美術教育を比べてみた。
アメリカ — 「絵を見るのも、立派な勉強」
アメリカでは、美術を教えるかどうかに、哲学者や美学者(美について深く考える学者)がしっかり関わってきました。
きっかけのひとつが、「どんな教科でも、レベルを下げずに、どの年齢の子にもちゃんと教えられる」という考えです。
これをきっかけに、「美術もきちんと中身のある教科として教え直そう」という動きが広がりました。
この動きが、
「絵を見たり描いたりすることも、頭を使ってものを理解する活動なんだ」
「気持ちと考えることはバラバラじゃなく、つながっているんだ」
つまり「美術=ただ手を動かすだけ」ではなく、「美術=ちゃんとした知的な勉強」だ、
という考え方に繋がっていきます。
この流れから、1980年代にはDBAEという考え方が生まれます。
これは「美術も、国語や数学と同じように、それ自体に固有の中身を持つ立派な教科だ」として、
しっかり体系立てて教えようとするものでした。
昔は「勉強=頭を使うこと」「美術=手を動かすだけ」みたいに分けて考えられていたんですね。
日本 — 「のびのび表現するのが一番」
いっぽう日本の戦後の美術教育は、アメリカとはちがう道を進みました。
日本では、「美術って学問的にどういうものか」という理屈の部分をあまり深く考えず、「子どもが自由に、のびのび表現するのが一番大事」という考え方(創造主義)が主流になりました。
その代表が「造形遊び」です。
決まった作り方にしばられず、子どもが手や体を使って自由に試す活動です。
アメリカが「美術=きちんとした知的な勉強」へ向かったのに対して、日本は理屈の土台をあまり持たないまま、「とにかく自由に!」という方向へ進んだのです。
これはこれで素敵なのですが、「美術ってそもそも何なのか」という理屈の部分を、あまり深く考えないまま来てしまった、と著者は指摘します。
つまりこの節は、「美術の授業は本当はすごく大切なのに、その『なぜ大切か』をちゃんと説明する土台が、特に日本では弱いままだった」ということを、アメリカと日本をくらべながら教えてくれているわけです。
以下、ここでは割愛しますが、
第2節 美学者による美術教育の位置づけ
第3節 教育哲学における美術の位置づけ
第2章 美術の学びの特殊性
第3章 芸術的省察と美術教育
第2部 製作者による芸術的省察
と話が進んでまいります。
美術教育について考えるにも、哲学っぽいことが登場してくるのですね。
第1節で述べられている「社会のルールによって抑え込まれていた気持ちを、自由に表現する場になる。」といった内容は、うっすら理解でもいい気は知れませんが、もう少し奥深く考えてみたくもあるものです。
共通テスト2026年現代文で出題されていた『「贈与」としての美術・ABR』は、「社会のルールによって抑え込まれていた気持ちを、自由に表現する場になる。」について、一部を語っております。
また、本書では美術の実用性として「抑圧された情緒を和らげ自己表現の機会を与える場」と書かれている箇所を、私が「社会のルールによって抑え込まれていた気持ちを、自由に表現する場になる。」と言い換えてみました。言い換えてみたものの、分かりやすい言葉を使うと、どうしても、本文とズレている気が致します。
特に「ストレス発散」と表現したのは、完全に大きくずれていますが、他に分かりやすい言葉を思い浮かびませんでした。
原文を読んで下さると良いと思います。
また、
本書の「はしがき」(はじめに)でも述べられていたのですが、第1部「美術教育の理論的位相」を読むために、先に第2部「(美術・芸術)制作者による芸術的省察」を読んだ方が良いかもしれません。
今回は触れていませんが、第2節で
「『好きなように』ということの正しい意味は、あくまで『生命的な自由にたって』ということであって、勝手な好みに捉われるということではないはずである。真の解放ということは、勝手な好みや本能からの解放をも意味すべきであって、そうでなければ芸術的自由ということは成り立たない」
と本質的美術教育観をさらに詳しく説明する箇所で書かれています。
分かりそうで分かりません。
多少無理やりですが、『「贈与」としての美術・ABR』でもその一部は垣間見れます。
現代思想に明るくなければ何を言っているか分からないのだろうと思います。
そういう意味で、第2部を先に読み、第1部に戻れば、教育者たちの議論の変遷がよりリアルに感じ取れるのではないでしょうか。
美術教師になりたい方は是非。
また、小学校教諭を志す方も必ず役に立ちます。
是非。
【2026年共通テスト現代文】櫻井あすみ『「贈与」としての美術・ABR』の要約
「『贈与』としての美術・ABR」 出題箇所のみ
【1】子どものころ — ものを眺めることが、世界との対話だった
筆者は子どものころ、人とのコミュニケーションが苦手で、人を見るよりもものをぼうっと眺めている時間が好きでした。
- アスファルトに練り込まれた鉱物の模様
- 塀のざらざらした質感
- 空き地の雑草
- 打ち捨てられた粗大ごみ
など
多くの人が見過ごす「ふつう」の風景に、ふと心を惹かれる子どもでした。
世間が「美しい」とするものには必ずしも興味がなく、自分なりの「美しさ」を感じていたのです。
なぜそれが好きだったかというと、目の前のものが、よく知らない他人を眺めるような不思議な心地よさを与えてくれたから。
見慣れたものが、ふと見知らぬものへと姿を変える。
そうやってものを眺めることが、筆者にとっては世界との対話(コミュニケーション)でした。
【2】現在 — 美術の制作とは、素材との交流である
筆者は今、美術の制作者です。
制作とは、自分のイメージを一方的に形にすることではなく、素材との交流だといいます。
ここで思想家バタイユが引かれます。
造形(ものを作る)行為には、2つの側面があります。
- 作者が持つイメージ通りに素材を変えていく側面。
- 逆に、素材のほうが、作者の思ってもみなかった姿を見せ、作者がそれに従っていく側面。
ラスコー洞窟の壁画を描いた先史時代の人々のように、引いた線の中から、作者自身も予期しなかった新しい形が立ち現れてくる。
だから完成して固定された不変の作品としてではなく、移り変わっていくものとして世界を眺めることこそが大切だ、というわけです。
筆者は自分の制作を振り返り、見慣れた素材が突然「美しさ」を見せる瞬間が、子どものころ「ふつうの風景」に目を留めた、あの感覚とよく似ていることに気づきます。そしてその「美しさ」は、他人と完全には分かち合えない、自分だけのものでした。
【3】「美しい」とは何か — 交換できない「わかりえないもの」、そして「贈与」
ここから話は「美しい」とは何かへ広がります。
私たちはふだん「美しい」を、みんなで共有できる客観的な価値だと思いがちです。でも本当は、何を美しいと感じるかは人によって違い、言葉で説明し尽くすことはできないものです。
そもそも人間は社会の中で、言葉やお金のように「交換できる(=みんなで共有・換算できる)」ものを前提に生きています。
ところが「美しいもの」や「わかりえないもの」は、その交換の枠組みからはみ出してしまう。言葉できれいに切り分けることも、他人とぴったり同じに共有することもできない余白を含んでいるのです。
そして、この「わかりえないもの」に出会ったとき、
ふだん当たり前だと思っていた「交換できる世界」が、実は当たり前ではないと気づき、その外側に「他者」がいることが見えてくる。固定されていた自分や世界の枠組みが、根っこから揺さぶられる。これが本文の核心です。
最後に、筆者は美術の制作を「贈与」という言葉でまとめます。ただし「一方的にプレゼントする」という単純な話ではありません。本文がたどる順番はこうです。
まず、「わかりえないもの」にただ巻き込まれるのではなく、
筆者は自ら能動的に、その中から「美しさ」を受け取る。
次に、それを「作品」という形で、別の「美しい何か」へと作り変える(変換する)。
そしてそれを、誰とも交換できないものとして、他者へ贈り出す。
受け取ってもらえる保証はどこにもありません。
それでも、いつか誰かがそれを受け取り、その人の世界がほんの少し揺らぐことを、ひそかに期待しながら作品を作る。
そういう営みこそが美術の制作なのだ、と結ばれます。
つまり「贈与」とは、〈受け取る → 別の美しさへ変換する → 贈り出す〉という循環であり、贈ることと受け取ることがワンセットになっている点が、筆者の言いたいところです。
この文章のポイント(高校生向けに一言で)
「美しい」というのは、みんなで「これが正解」と決められるものではなく、言葉にしきれない、自分だけの感じ方がある。
そして美術を作るとは、その言葉にできない「美しさ」を自分なりに受け取って作品に変え、見返りを求めずに誰かへ贈ること
そうやって、相手の世界をそっと揺さぶろうとする営みなのだ、という話です。
他者に感じる冷たさに騙されるな
現代文が苦手だという高校生に1つお伝えしておきます。
「他者」と「」がつくかどうかに拘ってください。
「他者」と表記された場合、特別な意味があり、それは哲学用語としての他者という意味に近くなります。
分かり合えない存在という冷たさ、他人との断絶を意味する言葉ではなく「分かり合えない壁」があるからこそ「お互いに相互的に尊重しあう」というニュアンスが組み込まれている言葉です。
もし「他者=ただの他人」と読んでしまうと、本文の最後の「贈与」も「他人へのプレゼント」という軽い話になってしまいます。
でも「他者=自分には分かりえない存在」と読むと、最後の「贈与」の意味が一気に深くなります。受け取ってもらえる保証もない(=相手は自分の理解の外にいるから、思い通りに届く保証がない)。それでも、その分かりえない相手に向かって、分かりえない『美しさ』を贈り出す。通じるかどうか分からない相手に、それでも差し出すのです。
これが本文のいう「贈与」の切実さです。「他者」を哲学的に正しく押さえると、ここまで響いてくるわけです。もちろん、知らなくても本文にはそういう書き方がされているので、覚える必要はありませんが、
何かの助けになれば。
美しさとは何か
共通テスト現代文2026「『贈与』としての美術・ABR」の出題箇所は、正答率が低かったように思います。
おそらく「美しさ」の定義を「あなた流」のぽやっとした解釈で、設問を比較した人が多いのではないでしょうか。
筆者のいう「美しさ」に従わなければなりません。
「分かり合えないモノ」として言い換えられているのですから、そういう目線で選択肢とにらめっこしていただければと思います。
あわせて読みたい
第3節の「他者に感じる冷たさに騙されるな」のパートなどで、「『他者』という言葉の哲学的な意味合いをもっと知りたい方は、[共通テスト現代文で頻出の用語解説まとめ]の記事も参考にしてください。









