努力の限界と「逃亡」の先にあるもの

日記

文武両道は難しい。

文武両道は難しいとしながら、ある程度「浪人」覚悟で受験勉強に突入するのが姫路西。


文武両道は難しいとしながら、高3で現実路線に切り替えるのが姫路東。


全体としては、やっぱり、そういう空気かな。

良い悪いは価値観の問題ということで。


こちらのスレッズがやや注目を浴びたので、

背景にある私の想いをブログで書いておきます。

「文武両道は難しい」

高校生活において、誰もが一度は直面する残酷な事実です。

時間と体力というリソースには、物理的な限界があります。

この「どうにもならない壁」に直面したとき、

人間はどのように「努力」を設計し、

人生と向き合うのか。

あまりにも分かりやすい説明をするために、

二つの進学校、姫路西高と姫路東高を例えとして書いてみます。

キレイきっぱり別れるわけではなく、全体としてそういう校風だと思ったりはするが、個人の話はまったく別だという点はご理解ください。

つまり、

姫路西高校は、

毎年60人~80人浪人する高校であり、

現役浪人を含めると90%前後は国公立大学へ進学する高校だということ。

姫路東高校は、

毎年20人~30人浪人する高校であり、

現役浪人を含めると65%前後は国公立大学へ進学する高校だということ。



ここで私立高校を加味しないのは、

1人10大学程度合格できる私立大学を入れると複雑になるので、

考慮しないという意味です。

国公立と私立という対立を煽るようになることが心苦しいのですが、

国公立より私立に進学した方がよいケースはかなりあります。





学力という側面で両校を語ると、

ボリュームゾーンの子達に大差はないと私は思っています。

確かに、最上位と言われる子達に差はあります。

姫路西1位と姫路東1位に差はあるが、

姫路東140位と姫路西140位で、

そんなに差があるようには思いません。



1. 徹底抗戦の「西」と、しなやかな適応の「東」

「文武両道」という難題に対し、両校は少し違う空気感を感じます。

姫路西の「浪人覚悟」 ― 実存的抵抗と純粋さの美学

西高の「無理だと知りながら、浪人覚悟で突き進む」という態度は、不条理に対する「実存主義」の体現です。時間切れという現実を前にしても、自分の絶対的な理想を下げない。

効率や結果(=現役合格)よりも、己の美学を貫き通すことにアイデンティティを見出します。社会のシステムとの摩擦を恐れず、傷つくことを引き受けてでも自らの物語に殉じようとする、極めて熱く不器用な魂の燃焼です。

人生の節目に、非合理的な拘りを見せて、遠回りをしても良いでしょう。

姫路東の「現実路線への切り替え」 ― プラグマティズムと有限性の受容

対して、東高の「高3で現実路線に切り替える」態度は、「実用主義(プラグマティズム)」とも言えるでしょう。自分が時間という法則から逃れられない有限の存在であると冷静に受け入れ、手持ちのカードの中で「現実の世界とどう折り合いをつけるか」を選び取る。

過剰な自意識から降り、世界との摩擦を減らしながら着地していく姿勢は、大人の成熟と冷徹な知性ともいえるのです。




このような話を持ち出した時、

私たちは「優劣」を語ってしまいます。プロ野球やプロスポーツであるならば仕方のないことなのかもしれません。

しかし、それでは高校生が商品になってしまいます。



ここで最も重要なことは「良い悪いは価値観の問題」として、白黒つけようとする極端な同調圧力から距離を置き、「そういう生き方もあるよね」とフラットに受け流せることなのだろうと思うのです。

極端に違う二つの生き方を前にしたとき、私たちはつい「こっちが正しい!」と議論したくなります。

子どものためには「こっちが正しい選択だ」と考えたくなります。

しかし本当に大切なのは、理屈で相手を論破するのではなく、「あいつもあいつなりに苦労してるんだろうな」と想像できる、当たり前の人情を忘れてはならないということです。

これこそが、社会の息苦しさから子や身を守る「普通の良識」として、大人が持つべき姿勢です。

少なくとも(私にとって)忘れたくはない姿勢です。


2. 第3の道:「システムからの逃亡」という過酷な努力

姫路西の「理想主義」も姫路東の「現実主義」も、実は「大学受験という同じゲームの盤面に乗っている」という点では一致しています。

しかし現代社会では、このどちらでもない「両方からの逃亡(第3の道)」を選ぶ人々も増えています。

「逃亡」と聞くと、楽な道のように、楽な道への逃亡と聞こえてしまうかもしれません。

自分を縛り付ける価値観のレールから全く別の価値体系へと脱出することは、決して逃げではなく、極めて創造的で能動的な行為です。

「そもそも、なぜ他人が作ったゲームに自分の時間を費やさなければならないのか?」

と、自分のゲームへとひっくり返す自立です。

この「逃亡」は、ある意味で西や東の努力よりも遥かに孤独で恐ろしい道でもあります。

学校や社会が用意してくれた「偏差値」や「合格」といった分かりやすい承認の物差しを捨て、レールから外れる不安をすべて一人で引き受け、「俺の人生はこれでいいのだ」と自ら肯定し続けなければならないからです。


3. ニヒリズムの沼からの「脱出経路」

社会のシステムから逃亡した者が最も陥りやすい苦しみがあります。

「学歴に意味はない」

「私とあなたは違う」

「勉強しても無駄だ」

といったように、「どうせ世界は無意味だ」と斜に構えるニヒリズム(虚無主義)の沼です。

同じ逃亡だったとしてもニヒリズム的な逃亡はよくないと私は思うのです。

虚無主義とは、、、、

ネバーエンディングストーリの冒頭です。



昔の人は、ニヒリズムに陥る暇がありませんでした。なぜなら、「神のため」「お国のため」「家長制度のため」といった、社会が用意してくれた「大きな物語」があったからです。

しかし現代は、そうした絶対的な価値観が崩壊しました。むしろ、そうした大きな物語に抑圧された存在として人権というものが考えられています。

私たちは「あなたは自由だ。好きなように生きる意味を自分で見つけなさい」という価値観のもとで生きろと言われています。

実は、「自分でゼロから生きる意味を創り出す」というのは、とてつもない重労働です。自由に耐えきれず、意味を探すことに疲れ果てた結果、「結局、世界には最初から意味なんて用意されていなかったんだ」と虚無に逃げ込んでしまうのです。

ニヒリズムの沼にハマる最大の原因は、「頭(理性)で意味を考えすぎるから」です。「私が生きる意味とは?」「この努力は宇宙的規模で見れば無価値ではないか?」と論理で計算し始めると、必ず「無意味である」という答えに行き着きます。

論理の限界です。



「どうせ世界は無意味だ」と悟ったふりをしても、自由を感じることが出来るのは最初だけです。そこに長く留まると魂は冷え切ってしまいます。

つまりこれは、工場ではたらき毎日同じルーティンを繰り返すことの是非です。なぜなら、社会のゲームから降りたとしても、私たちの人生からは「毎日のルーティン」が消えるわけではないからです。

朝起きて、働いて、食べて、寝る。

これは例えるなら、工場で毎日同じルーティンを繰り返すようなものです。

もちろん、工場で働くことを否定しているわけではありません。どんなに煌びやかに見える世界にいようとも、結局のところ、人生の大部分は単調なルーティンの繰り返しです。

これは何をしていても同じことが起こりうるのです。

ニヒリズムに浸かったまま、この「人生というルーティン」を生きるとどうなるか。

「意味がない」と見切ることは、自分が傷つかないための最強の防具です。期待しなければ裏切られることも、失敗して絶望することもありません。 しかし、痛みをシャットアウトする防具は、同時に「喜び」や「感動」もシャットアウトしてしまいます。

「美しい風景を見ても心が動かない」
「誰かに優しくされても何も感じない」

心が一切のダメージを受けなくなる代わりに、生命としての根源的なエネルギー(熱量)が失われるということです。

氷点下の世界に留まることの最大のデメリットは、「ゲームとしてつまらなすぎる」ということです。

ゲームで例えるならば、絶対に敵が出ない、ダメージも受けない、しかしイベントも一切起きない「初期の村」から一歩も出ずに、レベル1のままゲーム機の電源を入れたまま放置している状態です。

「氷点下の世界に閉じこもる」のは、決して悪くありません。

しかしそれは、「外の世界で傷つく(熱い)地獄」を回避する代わりに、「自分の部屋で退屈と虚無に殺される(冷たい)地獄」を選んでいるという、単なるトレードオフに過ぎません。




虚無に陥ると、他者との関わり方が「冷笑」に限定されるようになります。

姫路西高のように泥臭く頑張っている人や、姫路東高のように現実と格闘している人を見て、「どうせ社会の歯車になるだけなのに、あんなに必死になってバカみたいだ」と、安全な安全な観客席から見下すようになります。

何かに熱狂している他者を冷笑することでしか自分の立ち位置を保てなくなります。

冷笑の何がわるいのか?

悪いということもありません。

ただ、

人間は「意味」を享受しないと生きていけない生き物です。

「生きてるだけで丸儲け」という意味でも構いません。

かなり素敵な意味です。

すべての価値を否定し、「あれも無駄」「これも無意味」と切り捨てていくと、最後には「何もすることがない、果てしない退屈」だけが残ります。

ただ快適さだけを求め、リスクを避け、暇つぶしの娯楽(現代で言えばスマホの無限スクロールなど)だけで死ぬまでの時間をやり過ごす。

生きているのに死んでいるような、極めて空虚な状態です。

それが人間らしいのかどうかという1点に尽きるのです。

社会のルールから逃亡して「世界は無意味だ」と気づくこと自体は、知性の証であり、必要なステップです。しかし、そこは「一時的に避難する場所」であって、「永住する場所」ではありません。



どれほど絶望的な状況でも、「あなたが完成させるのを待っている仕事」や「あなたを愛し、必要としている人(あるいは動物や風景)」が必ずどこかに存在しています。

言い換えれば、人生の側が「お前はこれにどう応えるのか?」と常に問いかけてきているということです。

自分が何をしたいか(自己実現)という内向きのベクトルを捨て、「自分の外側にある、自分を必要としている何かに応える」といった考え方へと反転させたとき、虚無は消え去ります。

仕事でなくても構いません。今も昔も仕事に自己実現を求めすぎている気は致します。少し古い考え方かもしれませんが、新しい家族に恵まれたとき、新しい家族を守るという生きがいは、十分に虚無から脱出させてくれます。

(ネバーエンディングストーリの結末の一部)

つまり、

どういう社会であれ社会(自分の外側)と関わっておく必要はあるのです。

また、

とある哲学者は、私たちが目指すべき境地を「第2の無邪気さ」と呼びました。心の余白といって良いでしょう。

世界が不条理で、

努力が報われないこともあり、

絶対的な正義などないという「残酷な現実」を知り尽くした上で、

それでもなお、目の前のささやかな物事を愛し、

あえて再び無邪気に信じてみる。

日常の中で「余白」を生きる

「心の余白」を、私たちの生活レベルで実践するための具体的な3つの心がけがあります。

  • 自分の「役割」を「真剣な遊び」として演じる
    目の前の仕事や役割を「社会という劇場で与えられた、ただのゲーム」と割り切りつつも、決して斜に構えず、俳優のように最高のプレイを楽しんで演じ切ること。つまり、目の前のことに全力投球するということです。
  • 効率や結果を求めない「小さな儀式」を持つ
    ただ香りを楽しみながらコーヒーを淹れる。穏やかな瀬戸内の海を、意味もなくただ眺める。「何のためにもならないが美しい時間」をあえて持ち、コスパ至上主義のシステムから自分を引き剥がすこと。つまり、サードプレイスと言っても良いでしょう。いま、この瞬間だけは誰からも邪魔されない他人には説明のしようもない小さな幸せともいって良いでしょう。
  • 「大きな絶望」の代わりに「小さな親切」を選ぶ
    世界の理不尽さにSNSで絶望する代わりに、目の前の店員に感謝を伝えたり、落ちているゴミを拾ったりすること。自分の手が届く半径5メートルの世界にだけは、ささやかな温かさと秩序をもたらす態度。大谷翔平流にいうと、運を引き寄せる態度ともいえるでしょう。

おわりに

期待値を底まで下げて「世界なんて不完全で無意味なものだ」と知っておけば、日常に転がっている小さな美しさや、他者のちょっとした優しさが、すべて「奇跡のような加点」として感じられるようになります。

私たちは、時期や直面する課題によって、西のように徹底して戦い、東のようにしなやかに妥協し、時にはすべてを放り投げて逃亡します。そのすべての過程を経て、遠い正義を憂うのをやめ、具体的な生活の足元に自らの手で意味を与えていく。

その皮肉を含んだ決意こそが、人生の虚無を抜け出した人間の、最も強く美しい姿なのだと思います。



そう考えたとき、

学歴に意味はあるし、

学歴に意味はないのです。



故に、

勉強からの離脱

勉強と闘うこと

いずれも悪いことではないのです。



現代人は意味や物語を喪失し、ネット上の小さな世界の中で、特定の言葉に対して条件反射的に欲求を満たすだけの「動物」になりつつあります。

「敵」とみなした相手には冷酷に石を投げ、「味方」の中だけで共感のボタンを押し合います。

他者を「自分の欲求を満たす対象」としてしか消費できなくなった社会では、

逆に「私は社会から何を求められているのか」といったようなことを考える場所が消滅してしまっているのです。

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