前回⑤「エゴイズム論」では、「自分のため」と「他人のため」の境界線を考えました。
人間は利己だけでも利他だけでもなく、他者との関係の中で生きている――そして、利己と利他の単純な対立では説明できない存在でした。
そこで、最後にこんな問いが残ったはずです。
「対立するものが、ぶつかり合いを通して新しい段階へ進む」とは、一体どういうことなのか?
今回はその答えとして、ドイツの哲学者ヘーゲルが提示した「弁証法」を扱います。
ヘーゲルの弁証法
この問題を深く考えたのが
ドイツの哲学者
ヘーゲル
です。
テーゼとアンチテーゼで有名なヘーゲルです。
弁証法の補足
よくある誤解は、
弁証法
= 言いくるめる技術
みたいなイメージです。
でも哲学でいう弁証法はそうではありません。
哲学での弁証法は、
物事は最初から完成しているのではなく、
矛盾や対立を通して動いていく
という考え方です。
つまり、
- Aがある
- それに反対するBが出る
- その対立を通して、AでもBでもない新しい段階Cが生まれる
という動きです。
弁証法具体例 子どもの成長
小さい子どもは最初、
自分が世界の中心
のように感じています。
でも成長すると、
- 他人には他人の考えがある
- 自分の思い通りにはならない
と知ります。
すると最初の
自分中心の世界
は壊れます。
しかしそのあと、
他人の視点も含めて自分を考える
ようになります。
これが弁証法っぽい動きです。
つまり
- 最初の単純な自分
- それを否定する他人の存在
- その否定を通して成熟した自分
です。
弁証法とエゴイズム
ヘーゲルは、人間を
承認を求める存在
だと考えました。
人間は
ただ生きているだけでは満足しません。
他人から
「あなたは価値のある存在だ」
と認められることを求めます。
これを
承認
と言います。
主人と奴隷の弁証法
ヘーゲルは
有名な例を出します。
二人の人間が出会うと、
互いに
自分を認めさせよう
とします。
つまり
自分が上だと証明しようとする。
その結果、
主人
と
奴隷
という関係が生まれます。
主人は支配する側、
奴隷は従う側です。
一見すると
主人が勝ったように見えます。
しかし問題が起きる
ところが、
奇妙な問題が起きます。
主人は
奴隷に認められています。
しかし
奴隷は
自由な存在ではありません。
恐怖や支配の中で
従っているだけです。
つまり
奴隷の承認は
本当の承認ではない
のです。
エゴイズムの限界
ここが重要です。
主人は
自分だけが上に立とうとしました。
つまり
エゴイズム
です。
しかしその結果、
本当に欲しかった
他者からの承認
を得ることができませんでした。
つまり
自分中心では
自分自身も成立しない
のです。
人間は関係の中で成立する
ヘーゲルの結論はこうです。
人間は
- 完全な利己でもなく
- 完全な利他でもない
存在です。
人間は
他人との関係
の中で
はじめて
自分になる。
つまり
相互承認
によって成立する存在なのです。
モースの贈与論とのつながり
この考え方は
文化人類学にもつながっています。
例えば
モースの
贈与論
です。
贈り物は
単なる物の交換ではありません。
そこには
・贈る
・受け取る
・返す
という
関係のルールがあります。
贈り物は
利己でも
利他でもなく
関係を作る行為
なのです。
補足:人間を縛る「社会」のルール(デュルケム)
(自殺論で有名なデュルケムさんです)
エミール・デュルケム(1858–1917)
フランスの社会学者で、
社会学を
独立した学問として確立した人物
です。
(社会科学系では何度も何度も登場するので是非)
(名前だけでも😢)
デュルケムは、
人間の行動は
社会的事実
に従うと言いました。
例えば
- 葬儀のマナー
- 挨拶
- 贈り物
- 礼儀
これは
個人の自由ではありません。
社会が作った
規範
です。
つまり、個人の行動や感情は、そもそも
社会の中で制御されている(社会のルールに従わされている)
という考え方です。
※この「目に見えない社会のルール」という視点は、このシリーズの第8回・第10回で扱う「構造主義」へとダイレクトに繋がっていきます。
現代文あるある
現代文の評論では、
次のような流れがよく出てきます。
近代
理性中心の人間観
↓
身体論
身体経験の重視
↓
エゴイズム論
利己と利他の問題
↓
弁証法
人間は関係の中で成立する ← いまココ!
↓
構造主義・贈与論
関係と構造の仕組み
こうして
人間とは何か
という問いが
さまざまな角度から考えられていきます。
まとめ
今回は、ヘーゲルの「弁証法」を通して、人間の作られ方を見てきました。
主人は自分だけが上に立とうとしましたが、自由ではない奴隷から認められても本当の満足は得られませんでした。
人間は、自分一人では「自分」になることができません。
他人との関係の中で、互いに認め合う(相互承認)ことではじめて自分になる。
つまり人間は、
孤立した個人ではなく、対立と関係の中で生きる存在
なのです。
現代文の評論は、
こうした
人間とは何か
という問いを、
哲学や社会学の議論を通して考えている文章だと言えるでしょう。
次回予告:⑦精神分析 ― 心の主人は「無意識」という名の住人
ここまで、人間とは何かという問いを、さまざまな角度から考えてきました。
近代の理性中心の人間観から始まり、身体論、エゴイズム論、そして弁証法へ――。
しかし、ここでもう一度、根本的な問いに立ち戻ります。
「自分」は本当に「自分の意志」で動いているのでしょうか?
次回は、その問いを根本から覆した思想家を扱います。
フロイトの「無意識」――心の地下室に住んでいる、もう一人の自分。
〜「背景知識」を知れば、評論文はもっと読める 〜








