弊塾の中学生には、1ページに1回、2ページに1回、演習ノートをわたしに持ってくるルールがあります。問題に正解していても、間違えていてても「どういうこと~~~~?」と私に突っ込まれます。例えば計算問題を間違えたときなどは、どこをどう間違えたのかまで聞きます。
もっとも許していないのが「計算ミスです」という言葉。そら計算問題を間違えたのだから、計算ミスに決まっています。それ以外の答えはありません。では、どの計算ルールを間違えたのですか?? そこを聞いているのです。
我ながらかなり意地悪です。
意地悪の極みです。
心苦しくて仕方ありません。
多くの中1はフリーズします。思考停止に陥ります。怒られているような感覚になりフリーズします。
でもね、そこから逃げたらアカンねんで。
自分でそこと戦わなアカンねんで。
そういうことを答え合わせの時にするんやで?
数式に落とし込めないこと、言葉にならないことが質問するべきことやで?
話がそれました。
途中式を書くのは面倒臭い、それは分かる。本当に分かる。
(中1の頃は坂中で90人中80位だった私ももちろん面倒なので式を書いた記憶はありません。内緒です。)
「なんとなく解けた」「なんとなく解けない」は嫌なんです。
最終的に伸び止まりマス。
学校のテストで平均点よりちょっと上ぐらいで推移している中学生は、反復練習が足りないとかそういうレベルではなく、勉強するだけ無駄な思考をしています。冷静に自分を振り返りもしないのに反復練習をしたところで伸びません。振り返りもしないためわざわざ問題を間違えるような「変なクセ」をつける練習ばかりしています。
その辺のことに関しては勉強の基本➀で書いています。
そもそも「数学」という学問は何をやっている学問なのだろうか?
数学に限らず多くの学問に共通していることであるが「人に説明するため」が大事です。自分が考えていることを言葉を使って表現しなければならないのが学問です。数学も例外ではなく「問題を解く」のではなく「証明」しているといった感覚の方が正しいように私は思っています。
数式も言語だというと数学の専門家に怒られるのかも知れませんが「公式」が成り立つことを証明しなければいけないのが数学です。そもそも、なぜその答えに至ったのかを証明しなければなりません。
なんとなくこうっぽいよね~では数学は許してくれません。
そんな話を描いた映画がこちらの「奇蹟がくれた数式」です。自ら導き出した「公式」を証明する天才数学者の苦悩が描かれています。
算数と数学の最大の違いの1つはここにあるように思います。
解ける解けないも大事なのですが、数学は人に説明する必要がある学問なのだとすれば、「日本語」もしくは「数式(世界共通言語)」によって説明(証明)出来ねばならないのです。
冒頭の話に戻るならば数式や線分図が書けていればそんなに突っ込まれることはありません。そんな話を中1に語りかけながら、途中式を書くことに納得していない、正解していても不正解でも説明を求められることにまだ納得していない中学生達と楽しく勉強する日々です。
よければ是非、「奇蹟がくれた数式」もお楽しみ下さいませ。
なお「エジソンは数式を書けなかったから学校の成績は悪かった、それでも大成した」という反論はうけつけません。
Willbe中学生へ
そこはもう諦めてね。
数式や線分図に表現出来ていない解答、何をどう間違えたのか、何をみたらその数式が登場するのか?が分からないノートを書いても「なんでなん?」「どういうこと?」「結局 何が分かってたん?」と聞かれるよ。
私が1番嫌いなノートは○がついているノートです。
○がついていると躍起になってノートを見ています笑
ある瞬間に 答えが天から降ってきました。
こういうのいらないです~ テスト中だけにしてください~
シュパッ
表現力、思考力、判断力
日本人は自己表現が苦手など言われますが、数式を書くと言うことも立派な「表現力」です。
それでは今日はこのへんで。