皆さん、こんにちは。
先日、赤穂の歴史を掘り下げる記事の中で「受容史」についてふれました。
受容史の代表例として忠臣蔵をとりあげたため、もう少し詳しく忠臣蔵の受容史を書いてみることにします。
忠臣蔵、って
いったい何の物語なんだろう、
というわけであります。
主君のかたき討ち?
忠義の美談?
ただの仇討ち(復習)
いや、テロ行為?
この問いへの「答え」は、
時代によってコロコロ変わってきました。
今日はそのお話です。
そしてこれは、最後に「正義とは何か」という、
ちょっと大きな問いを投げつけてみたいと思います。
事件は変わらないのに、「物語」は変わり続ける
まずは事実だけを確認します。
元禄14年(1701年)、
江戸城・松の廊下で、
赤穂藩主・浅野内匠頭が
吉良上野介に斬りかかります。
浅野はその日のうちに切腹、
赤穂藩はお取り潰し。
そして翌元禄15年(1702年)12月、大石内蔵助ら赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入り、
主君のかたきを討ったっ。
ここまでが「事件」です。
赤穂事件という言い方をした場合は、
このような記述になるでしょう。
この出来事そのものは、
320年前から1ミリも変わっていません。
この記事には、中学の歴史の教科書に出てくる用語がいくつも登場します。
テストにも出るキーワードには、うしろに(中学歴史)と印をつけておきました。中学生のみなさんは、ぜひ探しながら読んでみてください。
さらに、
中学「国語」で習う古典作品も出てきます。
こちらには(中学国語)と印をつけています。
歴史と国語は、こんなところでつながっているのです。
ところが、
赤穂事件を描いた「忠臣蔵」という物語の方は、時代とともに姿を変え続けてきました。
同じ事件が、ある時代には英雄譚になり、ある時代には危険物扱いされる。
その移り変わりを、順に見ていきましょう。
時代で変わる、忠臣蔵の「顔」
① 江戸時代 | 舞台を室町に移した「エンタメの王様」
討ち入りの翌年には、もう事件を題材にした芝居が登場しています。
(速いっ!)
ただし、江戸幕府への遠慮から実名では上演できませんでした。
そこで名作『仮名手本忠臣蔵』(1748年)は、
舞台をまるごと室町時代に移し替えました。
- 浅野内匠頭
→ 塩冶判官(えんやはんがん) - 吉良上野介
→ 高師直(こうのもろのお) - 大石内蔵助
→ 大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)
時代と名前を変えることで、幕府の目をかわすじつに巧妙なやり方です。
そもそも「幕府への配慮」とは何だったのか
そもそも、なぜ実名ではダメだったのか。
「幕府への配慮」とは、具体的に何を恐れていたのか。を掘り下げてみると江戸時代という社会の”仕組み”が見えてきます。
大前提:討ち入りは、幕府にとって「不都合な事件」だった
まず知っておきたいのは、
討ち入りが幕府にとって手放しで喜べる話ではなかったことです。
思い出してください。
浅野に切腹を命じ、
吉良にはお咎めなしとしたのは、
ほかならぬ江戸幕府自身です。
その裁定に対して、47人は実力行使で「ノー」を突きつけた。
これは見方を変えれば、
- 幕府の裁きへの、不服申し立て
- 天下泰平の世で武装集団が旗本邸を襲った、治安を揺るがす事件
でもあったわけです。
幕府は最終的に浪士を切腹させますが、
内心では「英雄扱いされては困る」というのが本音でした。
その事件を芝居にして、庶民が拍手喝采する。
これ自体が、幕府にとって神経を使う状況だったのです。
「配慮」の中身 | 3つのタブー
では、実名だと何がまずいのか。
大きく3つあります。
① 「時事問題を娯楽にするな」というルール
江戸幕府には、現実に起きた事件――とくに武士や政治がらみのもの――を、そのまま芝居や出版物にすることを禁じる方針がありました。
実際、討ち入りの直後にも「近ごろ起きた出来事を芝居や本にして売るな」という趣旨の禁令が出されています。
現代でいえば「進行中の裁判や政治スキャンダルを、当事者の実名でドラマ化するな」に近い感覚です。
② 幕府の裁定を批判しているように見える
浅野を善い人、吉良を悪者として実名で描けば、それは「吉良をお咎めなしにした幕府の裁きは間違っていた」と公然と主張するのと同じことになります。
お上の判断への批判は、江戸社会で最も避けねばならないタブーでした。
③ 関係者が、まだ生きていた
事件当時、吉良家の血縁者や、裁定に関わった将軍・徳川綱吉(中学歴史)とその側近たちは現役で生きていました。
実名で誰かを悪役に仕立てれば、その人たちの面目を潰すことになる。
これは直接、処罰の対象になりかねませんでした。
ここは現代でも同じですね。
いま生きている人を「悪者」「ヒーロー」として実名を出して話すのは、ダメですよね。
だから生まれた「建前」という知恵
そこで作り手たちが編み出したのが、さきほどの「舞台を室町時代に移す」という手法でした。
昭和を題材にして大河ドラマや小説が生まれにくいのも同様の理由ですね♪
『太平記』という古典の世界を借りて、
「これは室町時代のお話ですよ」
という建前を用意する。
観客は誰もが「本当は赤穂事件のことだ」と分かっています。
でも幕府に対しては「いえいえ、これは昔の物語です」と言い張れる。
お上への”礼儀”を形の上で守りつつ、中身では堂々と事件を描いた。
のです。
そして面白いのは、
「配慮」といっても
実際には時代設定を変えるだけの、かなり薄いごまかし
だったことです。
吉良の本家がすでに断絶していたことや、将軍・綱吉に直系の子孫が残らなかったことも幸いして、幕府はこの程度の建前で、芝居を見逃しました。
「本気で隠す」というより、
「お互い、建前は守りましょうね」という
暗黙の了解に近かったのです。
なぜ、よりによって『太平記』だったのか
ところで、
舞台を過去に移すにしても、
日本の歴史はいくらでもあります。
なぜ、よりによって『太平記』の世界だったのでしょう。
これが、実にうまく出来た選択なのです。
そもそも『太平記』とは
南北朝時代(14世紀)の動乱を描いた軍記物語(ぐんきものがたり)です。
(軍記物語は中学国語)
後醍醐天皇の倒幕、
足利尊氏の台頭、
南朝と北朝の対立、
(いずれも中学歴史)
室町幕府が生まれる前後の、ドロドロの争いの物語です。
「軍記物語」と聞いてピンとこなくても、
『平家物語』――(中学国語)
だと知れば「ああ!」となるはずです。
あの「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の、あれです。
合戦や武士の興亡を描いた物語のジャンルを「軍記物語」と呼び、『平家物語』と『太平記』は、その二大巨頭なのです。
江戸時代には「太平記読み」という講釈師が
街頭でこれを語り聞かせるほど人気で、
庶民にとっても「誰もが知っている国民的古典」でした。
この「誰もが知っている」が、大事です。
決め手は、”ちょうどいい悪役”がすでにいたこと
『太平記』には、高師直(こうのもろのお)という人物が登場します。
史実の高師直は足利尊氏を支えた実力者ですが、
『太平記』の中では権力をふりかざす、色好みで横暴な敵役として描かれています。
しかも、塩冶高貞(えんやたかさだ)という武将の妻に横恋慕し、
その一族を滅ぼしてしまう、という有名なエピソードまで持っている。
作り手は、これに飛びつきました。
吉良上野介を、この「いかにも悪そうな」高師直に重ねれば、観客はひと目で「こいつが悪役だ」と分かり、
そのうえ、滅ぼされる塩冶高貞の悲劇は、そのまま「浅野内匠頭が理不尽に切腹させられる」筋に流用できる。
あつらえたようにハマる”型”が、300年以上前の古典にすでにあったのです。
だから登場人物の置き換えも、当て字ではなく、
- 浅野内匠頭
→ 塩冶判官
→塩冶高貞。
理不尽に滅ぼされる被害者の”型” - 吉良上野介
→ 高師直
=横暴な権力者
=悪役の”型”)
キャラにはめていったのです。
観客はみんな、”暗号”を解けた
「誰もが知っている古典」だから、観客は「高師直」と聞いた瞬間に、
「ああ、あの横暴な悪役ね」
と即座に分かり、「これは本当は吉良のことだ」とも分かったのです。
表向きは室町の物語、
でも中身は誰もが赤穂事件だと解読できる。
古典を共通教養として持っていた江戸の観客だからこそ楽しめたものだということです。
いまで言えば、有名な神話や名作のキャラクターを使ったパロディが、
元ネタを知っている人にだけ刺さる
あの感覚に近いです。
「仮名手本」というタイトルも”暗号”だった
『仮名手本忠臣蔵』の「仮名手本」は、「いろは」47文字にかけています。
いろは=47は、討ち入りをした赤穂浪士47人を暗示しているのです。
さらに「手本」には、いろはを習字のお手本にするように「忠義のお手本」という意味も重ねられています。
タイトルからしてすでに、江戸っ子好みの言葉遊び・暗号だったわけですね。
「実在の事件を、名前や設定を変えてフィクションにする」
これ、まったく古い話ではありません。
現代のドラマや映画の最後に
「この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません」というテロップが流れますよね。
あれも同じです。
実際のモデルがいると分かっていても、建前として「架空の話」にしておくことで、いろいろな摩擦を避けている。
320年前の歌舞伎も、令和のドラマも、「本音」と「建前」を上手に使い分けて表現の自由を守ってきた。人間のやることは、案外変わらないものです。
庶民が熱狂した「エンタメの王様」へ
こうして建前という下地を整えたうえで、作り手たちは物語をふくらませていきます。
恋愛、親子の情、
身分違いの交流、
忠義に散る者の悲しみ
観客が思わず涙する要素を、
これでもかぁあと盛り込んでいく。
その結果、この時代の忠臣蔵は、
武士だけでなく庶民の心もつかんだ、
いわば「エンタメの王様」になりました。
歌舞伎に落語に浮世絵にと、膨大な派生作品を生んでいきます。
作者は近松門左衛門……ではありません
『仮名手本忠臣蔵』というと「近松門左衛門の作品では?」と思われがちですが、実は違います。
作者は竹田出雲・三好松洛・並木千柳の3人による合作です。
近松門左衛門は、この作品が初演される23年前(1725年)に亡くなっているので、そもそも関わっていません。
ただ近松も赤穂事件を題材にした別の浄瑠璃を書いており、同じ人形浄瑠璃・歌舞伎の世界の人物なので、混同されやすいのです。
当時から「批判」もあった
「忠臣蔵=みんなが手放しで称賛した」わけではありません。
事件当時から、儒学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)らは「私的な復讐であり、法を無視した行為だ」と冷静に批判しています。
これは赤穂市が採用している中学歴史(帝国書院)の教科書P156にも記載がありますね。
称賛と批判は、最初から同居していたのです。
綱吉の悩みと武家諸法度
赤穂市が採用している中学歴史(帝国書院)の教科書P156周辺知識をまとめておきます笑
この「称賛と批判の同居」に、
誰よりも頭を悩ませた人物がいます。
時の将軍、徳川綱吉です。
武家諸法度(ぶけしょはっと)。
(中学歴史)
これは、江戸幕府が大名(武士)を統制するために定めた基本ルールです。
1615年に最初に出され、三代将軍・家光のときには、参勤交代(中学歴史)も、この武家諸法度で制度化されました。
教科書P157に「綱吉の武家諸法度と家光の武家諸法度を比べてみよう」と書いてあるので、見比べてみてください。
綱吉の苦しみが理解できます。
つまり、
武家諸法度は将軍が代替わりするたびに出し直されるのが慣例で、五代・綱吉も将軍就任から数年後の天和3年(1683年)に改定版を出しました(「天和令(てんなれい)」と呼ばれます)。
この天和令で有名なのが、それまで筆頭にあった「弓馬の道(武芸)を励め」という条文を、「忠孝を励まし、礼儀を正すべし」に書き換えたことです。武力より、忠義・親孝行・礼儀といった儒教的な道徳を武士に求める方向へ舵を切ったんですね。
綱吉が「忠孝」を重んじた将軍と言われるのは、これが根拠のひとつです。
そして、この改定から約20年後に赤穂事件が起きます。
武家諸法度が示していたのは、要するに
「武士は勝手に争ってはいけない。もめ事は幕府の裁きに従え」
という、天下の秩序でした。
さて、ここで綱吉の板挟みです。
綱吉のジレンマ
- 忠義をほめれば……
綱吉は「忠孝」を何より大切にせよと説いてきた将軍。
主君のかたきを討った赤穂浪士は、まさにその理想の体現者です。
世間も「あっぱれ」と大喝采。助けてやりたい気持ちもある。 - でも、許せば……
幕府の裁定を無視し、勝手に徒党を組んで人を討つ。
これは武家諸法度が禁じた「私闘」そのもの。
ここで浪士を許せば、「忠義のためなら法を破ってもいい」という前例になり、天下の秩序が揺らいでしまう。
わざわざ武家諸法度で、
忠義を強調してしまった綱吉将軍。
忠義をとるか、
法をとるか。
ほめるべきか、
罰するべきか。
だからこそ綱吉は、すぐには決められませんでした。
大論争の感覚が伝わりますか?
浅野内匠頭のときは即日切腹を命じた綱吉が、赤穂浪士の処分には、なんと約2か月もの時間をかけたのです。
それだけ、幕府は裁定に苦しみました。
最終的に幕府が出した答えが、「切腹」でした。
打ち首(罪人としての処刑)ではなく、切腹。
これは、荻生徂徠が示したとされる知恵でした。
「法を破った罪は罰する。しかし武士としての名誉は守ってやる」
切腹という武士の作法で命を絶たせることで、幕府は「忠義」と「法」の両方の顔を立てようとしたのです。
「正義」がひとつに決まらないとき、
人はこうやって苦しみ、
折り合いをつける道をさがす。
320年前のこの「綱吉の悩み」は、
この記事の後半でお話しする「正義とは何か」にも、
繋げて参ります。
② 明治〜戦前 | 「忠義」の国民的模範へ
明治になり、江戸幕府が消えると、
ようやく実名での上演が可能になります。
明治41年(1908年)には、福本日南が
浪士側の視点に立った『元禄快挙録』を新聞連載し、大反響をよび、
近代日本の忠臣蔵観を方向づけました。
国民国家をつくり上げようとしていたこの時代、
忠臣蔵は「主君(お国)に忠義を尽くす」模範として、
教育や国民道徳の中に組み込まれていきます。
具体的には、どう「組み込まれた」のか
「組み込まれた」と言われても、ピンときませんよね。
もう少し具体的に見てみましょう。
キーワードは3つです。
① 「修身」という教科
戦前の学校には「修身(しゅうしん)」という科目がありました。
いまの「道徳」の、ずっと強力なご先祖のようなものです。
この修身は、明治の途中からは数ある科目の中でも
筆頭教科
つまり最重要科目に位置づけられました。
そして、その修身の教科書には、
子どもが見習うべき「立派な人物」が数多く登場しました。
その代表格が、みなさんもご存じ二宮尊徳(にのみやそんとく)(中学歴史)
薪を背負って歩きながら本を読む、あの二宮金次郎です。
勤勉・倹約・親孝行の手本として、全国の小学校に銅像が立ったほどでした。
そして、この二宮尊徳と並んで、
「忠義」の手本として登場したのが、
大石内蔵助をはじめとする赤穂義士たちだったのです。
金次郎が「勤勉のお手本」なら、
赤穂義士は「忠義のお手本」。
徳目ごとに、見習うべき人物がきちんと用意されていたわけです。
徳目とは、人が身につけるべき「望ましい心のあり方・行い」を、項目として一つひとつ立てたものです。かんたんに言えば「大切にすべき徳の”リスト項目”」です。
たとえば、
- 忠(ちゅう):主君や国への忠義
- 孝(こう):親を大切にする心
- 仁(じん):思いやり
- 礼(れい):礼儀正しさ
- 信(しん):うそをつかない、約束を守る
- 勇(ゆう):正しいことのために立ち向かう勇気
こういう一つひとつが「徳目」です。「忠」も徳目、「孝」も徳目、というふうに数えます。
もとは儒教(じゅきょう)の考え方です。
古代中国の孔子(こうし)の教えを源として、「人として立派に生きるには、これらの徳を身につけるべきだ」と説かれてきました。日本の武士道や、江戸時代の道徳の土台にもなっています。
② 「教育勅語」という背骨
明治23年(1890年)に出された「教育勅語(きょういくちょくご)」(中学歴史)。
これは、当時の教育全体の”背骨”となった文章です。
その中心にあったのが「忠君愛国」
天皇(お国)に忠義を尽くし、国を愛する、という価値観でした。
「主君のために命を懸けた赤穂義士」という物語は、この「忠君」の理想を、子どもにも分かる形で示す格好のお手本だったのです。
「主君=主君」だった江戸の忠義が、明治以降は「主君=天皇・国家」へと読み替えられていった。
ここが、この時代の忠臣蔵のポイントです。
③ 「国定教科書」という仕組み
明治37年(1904年)からは、
小学校の教科書が
国定教科書
国が内容を定める方式になりました。
つまり、日本中の子どもが、
同じ教科書で、同じ「理想の人物像」を学ぶようになったのです。
大石内蔵助の忠義や、義士たちの団結が、全国一律の「学ぶべき道徳」として広まっていくのです。
江戸時代には劇場で楽しむ”娯楽”だった忠臣蔵が、明治以降は教室で教わる”教材”になった。
これが「組み込まれる」という意味です。
同じ物語が”娯楽”から”教材”へ
ここ、受容史として本当に面白いところです。
江戸の人々にとって忠臣蔵は、涙あり笑いありの”エンタメ”でした。
ところが明治になると、同じ物語が「国民が身につけるべき道徳」として、真面目な顔で教室に持ち込まれる。
物語は同じなのに、置かれる”場所”が劇場から学校へ移るだけで、こんなにも意味が変わる。国家が「これを見習いなさい」と旗を立てた瞬間、娯楽は道徳になるのです。
物語の力を、国づくりに使う――明治という時代が、いかに”物語”を必要としていたかが伝わってきます。
こうして、
吉良はわかりやすい悪役に、
大石内蔵助は聖人に近いヒーローに。
「私刑としての危うさ」は、物語の外へ押し出されました。
忠臣蔵は、国民的美談の頂点に立ちます。
③ 占領期 | 一転、「危険物」として上演禁止
ところが第2次世界大戦敗戦後、
忠臣蔵は突然、
危険な物語として扱われます。
日本を占領したGHQは、
「仇討ちの賛美は、封建的で好戦的な精神を助長する」
と見なし、忠臣蔵の上演を制限しました。
ついこの間まで「国民が学ぶべき最高の美談」だった物語が、
体制が変わったとたん「上演してはいけない危険物」になる。
物語は1ミリも変わっていないのに、、、、
です。
変わったのは、赤穂事件を見る社会の側でした。
④ 高度経済成長期 | 大石内蔵助は「理想の上司」だった
戦後の復興を経て、映画とテレビの時代へ。
忠臣蔵は年末の風物詩として復活します。
そしてこの頃の大石内蔵助は、面白いことに「理想の上司」として描かれました。
耐えて、
忍んで、
感情を抑え、
ときに部下になじられながらも、
最後に一枚岩となってチームを勝利に導く。。。
これはもう、、、
会社(サラリーマン社会)の物語です。
中学生的には、部長、生徒会長、学級委員長の悩みです。
忠義は「愛社精神」に、
討ち入りは「プロジェクトの完遂」
に読み替えられたのです。
この時代を象徴するのが、
1964年(昭和39年)のNHK大河ドラマ『赤穂浪士』です。
(大佛次郎の小説が原作。大石内蔵助を長谷川一夫が演じました)
この作品は、
大河ドラマとしてはまだ2作目で、
「大河ドラマ」という呼び名そのものが、
この『赤穂浪士』の放送中に定着したと言われています。
そして討ち入りを描いた回は、
視聴率53%
昭和の紅白かっ
今も破られていない大河ドラマ史上最高記録です。
まさに、日本中がお茶の間で忠臣蔵を見ていた時代でした。
大石内蔵助は、
ひたすら耐え、
本心を隠し、
(昼行燈的な)
時に仲間の不満も引き受けながら、
最後にチームをひとつにまとめ上げるリーダー
として描かれるわけです。
高度成長期、
会社という「組織」で必死に働いていた人たちは、
この大石の姿に、自分の上司や、あるいは自分自身を重ねたのです。
のちの1982年『峠の群像』(原作・堺屋太一)になると、この傾向はさらにはっきりします。
赤穂浪士を「組織に属する一人の社会人」として、理想と現実のはざまで揺れる姿として描きました。
堺屋太一さんは、企業や組織のあり方を論じた作品でも知られた人物です。
(私は、高校生の頃に堺屋さんの本を読んでいました😢)
堺屋太一(1935〜2019)の経歴
- 東京大学経済学部卒
→ 通商産業省(現・経産省)の官僚 - 官僚時代に1970年の大阪万博を提案・企画して成功に導いたこれが最大の功績としてよく語られます)
- 1975年、石油危機を描いた近未来小説『油断!』で作家デビュー
- 1976年の小説『団塊の世代』で、この言葉の名付け親になりベストセラー作家に
- 1998〜2000年には経済企画庁長官(小渕・森内閣)も務めた
堺屋さんが亡くなった時、新聞各紙が肩書きを併記していて、日経新聞は「作家、元経済企画庁長官」、日刊工業新聞は「作家で経済評論家」、複数の媒体が「作家・経済評論家」としています。
堺屋太一は、東大経済学部→通産官僚→経済企画庁長官という、日本の経済・組織の中枢を実際に歩いた人物なんです。
だからこそ、彼が『峠の群像』で赤穂浪士を「組織に属する一人の社会人」として描いたことに、強い説得力がある。
「組織とは何か」を役所という巨大組織の内側で知り尽くした人が忠臣蔵を書いたから、あれは”サラリーマンの物語”になったという私の文脈が成立します。
実際、堺屋には『組織の盛衰』という組織論の著作もあります。
その視点で忠臣蔵を描いたからこそ、
赤穂浪士は「組織の中で生きる現代人」として見えてくる。
または昭和の現代人の姿が忠臣蔵を通してみえてくるのです。
私も幼いころは、歴史小説を事実だと思いこんで読んでいました笑
大人になって気づいたのですが、昭和の歴史小説の多くは、実は「サラリーマンの悲哀」を描いていたのだと思います。
戦国大名や幕末の志士の姿に、当時の会社員たちは自分の「組織での生きづらさ」や「上司との関係」を重ねて、共感していたからこそ流行った。
誰しもが出世レースに勝ち残れるわけではない。
だからこそ、天下人その人よりも、それを支えたNo.2や参謀のほうに光が当たり、注目されるのかもしれません。
そう考えると、では令和のいま書かれる歴史小説は、私たちの何を映しているのだろうと気になってきました。
最近の歴史小説を読んでいないので、これを機に手に取ってみようと思っています。
⑤ 現代 | 「そもそも、正しかったのか?」
価値観が多様化した現代では、
忠臣蔵の描かれ方はさらに変わります。
ヒーロー一色だったオールスター作品は減り、
かわりに「視点をずらした忠臣蔵」が主流になってきました。
- 悪役だった吉良側の視点から描き直す
- 討ち入りに加わらなかった浪士の側から描く
- 藩のお金のやりくりから事件を見る(映画『決算!忠臣蔵』など)
なかでも象徴的なのが、
池宮彰一郎の小説『四十七人の刺客』(1992年)です。
高倉健さん主演で映画にもなりました。
タイトルをもう一度見てください。
「義士」でも「浪士」でもなく
「刺客」です。
作者は「赤穂浪士は英雄ではない」という考えのもと、忠義の美談としてではなく、大石内蔵助と吉良・上杉側との冷徹な謀略戦として事件を描きました。
「聖人・大石内蔵助」の像を、意識的に変えてみせたのです。
もう一つ、大事な視点の転換があります。
「悪役・吉良は、本当に悪人だったのか?」という問いです。
実は史実の吉良上野介は、地元・愛知県西尾市(旧吉良町)では、治水につくした「名君」として今も慕われています。
地元には、
吉良が築いたと伝わる黄金堤(こがねづつみ)という堤防が今も残り、領内を赤い馬に乗って見回ったという伝承から生まれた「赤馬(あかうま)」という郷土玩具まであります。
新田の開発や塩田づくりにも力を尽くした、
領民思いのお殿様吉良上野介っ。
これが、地元・三河に伝わる吉良上野介の姿です。「意地悪で強欲な老人」という忠臣蔵の吉良像とは、まるで別人ですよね。
この視点を正面から扱った作品として、
たとえば清水義範さんの評伝小説『吉良上野介の忠臣蔵』は、
タイトルからして刺激的です。
「忠臣蔵の仇役」ではなく、
吉良を主役に据えて、
その世評は歪められたものではなかったか、
と問い直した一冊です。
ほかにも、吉良の視点から書かれた小説や朗読劇が、少しずつ生まれています。
念のため申し添えておくと、「吉良=名君」も、実は完全に証明された事実ではありません。
討ち入りのあと吉良家は断絶してしまい、公式の記録がほとんど残らなかったため、治水や新田開発の功績も、厳密には確証を得られていないのです。
「悪役・吉良」も「名君・吉良」も、どちらも後世に語り継がれた”像”だという点では同じ。
だからこそ、片方だけを鵜呑みにせず、両方を知っておくことが大切なのだと思います。
いずれにせよ、
「吉良=絶対の悪」という前提が崩れれば、
「討ち入り=絶対の正義」という前提も崩れていきます。
そして、こんな問いさえ珍しくなくなりました。
「討ち入りは、そもそも正義だったのか?」
現代の目で見れば、47人が徒党を組んで邸宅に押し入り、全くの他人を討ち取った。
これは立派な事件です。
「仇討ちはテロ行為ではないか」という見方も、いまや一般的です。
江戸の英雄が、令和では容疑者になる。
これもまた、忠臣蔵の一つの「顔」なのです。
え?
高い。。
どゆこと?
これを「受容史」といいます
ここまで見てきたような、
「一つの物語が、時代ごとにどう受け取られ、
どう描き直されてきたか」をたどる研究を、
受容史(じゅようし)といいます。
忠臣蔵は、その最高の教材です。
なにしろ事件は固定されているのに、
解釈だけが320年ぶん積み重なっているのですから。
| 時代 | 忠臣蔵の「顔」 | その時代が求めたもの |
|---|---|---|
| 江戸 | 庶民のエンタメ | 娯楽・人情 |
| 明治〜戦前 | 忠義の国民的模範 | お国への忠誠 |
| 占領期 | 上演禁止の危険物 | 封建思想の否定 |
| 高度成長期 | 理想の上司の物語 | 組織・愛社精神 |
| 現代 | 問い直しの素材 | 多様な視点・検証 |
物語は、その時代が求めるものを映す鏡なのです。
では、「正義」とは何なのか
さて、ここからが本題です。
忠臣蔵の受容史は、
「エンタメ作品の流行り廃り」の話だけで
終わるものではありません。
よく見てください。
変わってきたのは、
実は「何を正義とするか」ということなのです。
- 戦前は、主君への忠義を貫くことが正義だった。
- 占領期は、暴力や復讐を否定することが正義だった。
- 現代は、一つの視点を疑い、多面的に見ることが正義とされる。
同じ討ち入りが、ある時代には「正義の実現」、別の時代には「否定すべき暴力」になり、
「正義」は、時代や立場によって形を変える!のだからどこでも通用するたった一つの正解ではないのです。
これは、こわい話でしょうか。
私は、そうは思いません。
むしろ、
いま自分が”当たり前の正義”だと思っていることも、時代や場所が変われば違って見えるかもしれない
と知っておくことは、
とても大切な”教養”だと思うのです。
自分の正義を安易に人に押しつけることもなく、
違う立場の「正義」にも、
いったん耳を傾けてみる。
忠臣蔵という一つの事件をめぐって、
日本人が320年かけてやってきたのは、
実はそういう「正義をめぐる対話」のようにも思えるわけです。
……とはいえ、これで終わらせてよいのか?
ここで、少しだけ意地悪な質問をしてみます。
「正義は時代や立場で変わる」
これはこれで大事な視点です。
でも、これを突き詰めると、少しこわいことになります。
もし
「その時代のみんながそう思うこと」
がすべて正義なら、
過去に起きた恐ろしい出来事、
たとえば戦争や差別も、
「当時はそれが正義だった」
で済んでしまわないでしょうか。
そんなはずはない、
と多くの人が感じるはずです。
時代が何と言おうと、
越えてはいけない一線はある
と。。。。
この直感を大切にした哲学者がいます。
ドイツのカントです。
カントは、
「みんながそう言うから正しい」というのは、本当の正義ではない。
それはただのその場の空気だ。
時代や損得を超えて、
理性で考えれば誰もがたどり着ける、
揺るがない正しさがあるはずだ!
と主張しました。
例えば、
もし世界中の全員が、
自分と同じことをしたら
それでも世の中はうまく回るだろうか?
と考えてみることです。
これを忠臣蔵討ち入りに当てると、
「自分にとって大切なかたきなら、自分の手で討ってよい」
を全員がやり始めたら、
世の中は復讐の連鎖だらけになってしまう。
だからカントの考え方では、
討ち入りは――どんなに気持ちは分かっても――
「正義」とは認めにくいことになります。
これは記事の前半で紹介した
江戸の学者・荻生徂徠の批判(「私的な復讐であり法を無視している」)と、
ほとんど同じ結論です。
東洋の儒学者と西洋の哲学者が、別々の道を通って同じ場所にたどり着く。
これはもしかすると、「時代を超えた正義」がある証拠なのかもしれません。
――というわけで、話は振り出しに戻ります。
正義は、
その時代の社会が決めるものなのか。
それとも、
社会を超えたところに、
揺るがない正義があるのか。
正直に言うと、この問いに人類はまだ答えを出せていません。
何百年も、頭のいい人たちが議論し続けて、それでも決着していない。
でも、答えが出ないからこそ、
私たちは考え続ける価値があるのだと思います。
忠臣蔵という地元の物語が、
その「考える入口」になってくれるなら、
これほど嬉しいことはありません。
塾長のひとりごと
「正義は人それぞれ」を超える日は来るのか
ここまで書いてきて、私にはずっと悩んでいることがあります。
「正義は時代や立場で変わる(だから正解はない)」という考え方は、いまや私たちにとって”常識”になりつつあります。
「価値観は人それぞれだよね」という感覚です。
これは
優しくて、
寛容で、
いい考え方です。
でも一方で、
突き詰めると「じゃあ何を言っても、何をしても、その人にとっては正義なんだから否定できないよね」という、少し行き止まりのような場所にもたどり着いてしまうわけです。
さらに、
「じゃあ何を言っても、何をしても、その人にとっては正義なんだから否定できないよね」
は極論だから、時代ごとの常識が正義を決めることになります。
でも、
いままで見てきたように、
正義は変わってますよねw
実は哲学の世界では、
この「人それぞれ(相対主義)」を乗り越えようとする挑戦が、ずっと続いています。
カントもその一人ですが、現代にもいます。
たとえば「対話を重ねていけば、立場が違っても納得できる一致点にたどり着けるはずだ」と考える人(ハーバーマスなど)、
「正義とは、自分がどんな立場に生まれるか分からないと仮定したときに、それでも選べるルールのことだ」と論じた人(ロールズなど)。
名前は覚えなくて大丈夫です。
大事なのは、「人それぞれ」で会話を終わらせず、その先を考えようとした人たちが、いつの時代にもいたという事実のほうです。
では、令和のいまを生きる私たちは、この「人それぞれ」を超える新しい答えを見つけられるのでしょうか。
それとも、やっぱり超えられないのでしょうか。
正直、私には分かりません。
私が生きてるうちに、えらい学者さんたちが新しい考え方を私たちに提示してくれることを期待しています。
私ごときには、、、。
正解は分かりませんが、こういうことを時々考えてみるのは、けっこう楽しいものですよ。
塾長より、生徒たちへ
国語や社会のテストには、「忠臣蔵の正義とは何か」なんて問題は出ません。
でも、大人になってからの人生には、正解が一つに決まらない問題のほうがずっと多いのです。
君たちが選ぶ進路にも「普遍的な正義」はありません。
そんなとき、「立場が違えば正義も違う」と一歩引いて考えられる人は、強いです。
ケンカにも、間違った思い込みにも、振り回されにくくなります。
厭味ったらしくも、
(中学国語)
(中学歴史)
などと注を付けてみました。
キミ達は、
まだまだ、
キミたちが切実に何かを考えるための知識が足りないのかもしれないし
切実に考えてみたいことと出会えてないのかもしれない。
学んでおきましょう。
とにかく学んでおきましょう。
出会えるかどうかは運ですよ。
うんだからこそ備えておきましょう。
学んで欲しい。
(うざっ笑)
(なるわけがない。)
おわりに
赤穂に暮らしていると、忠臣蔵は「あって当たり前」の風景です。
これほど「時代の価値観を映してきた物語」も珍しい。
この町には、もう一つ、
時代ごとに描かれ方を変えてきた「受容史の教材」があります。
坂越・大避神社の秦河勝と、それをめぐる古代史の物語です。
忠臣蔵と秦河勝。
赤穂市は、「物語の受容史」の生きた教材を二つも抱えた、なかなか贅沢な町だと思います。
そちらの話にご興味があれば、こちらもどうぞ。
⛩ 坂越・大避神社を楽しむ周辺知識シリーズ
秦河勝公と渡来氏族・秦氏の足跡をたどる全8記事(+番外編)
兵庫県赤穂市坂越に鎮座する大避神社の祭神・秦河勝。聖徳太子の側近として活躍したこの謎多き人物と、その一族である秦氏について、古代史の視点から解き明かします。







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