皆さん、こんにちは。
前回は、6世紀後半に起きた「丁未の乱(ていびのらん)」のお話をしました。
秦河勝(はたのかわかつ)は、
聖徳太子や蘇我馬子とともに
「最新の文明(仏教)を取り入れる側」として戦い、
勝利を収めました。
しかし、ここからがミステリーです。
坂越の大避神社や赤穂市のHPを見ると、
秦河勝が坂越に来た理由は
「蘇我入鹿の事件(大化の改新)が原因」
だと書かれています。
前回、
秦河勝と蘇我氏は『味方同士』だったはずです。
なのになぜ、
蘇我氏が倒された事件で、
味方だったはずの秦河勝が都を
逃げ出さなければならないのですか?
今日は、この「丁未の乱」から「大化の改新」までの間に起きた、ドロドロの政治闘争を整理します。
日本書紀と秦河勝 | 「なぜ坂越に?」を歴史から読み解く
【おさらい】テストに出る「大化の改新」の構図
まずは中学校の歴史で習う基本を確認しましょう。
- 587年丁未の乱
蘇我氏・聖徳太子・秦氏が協力して物部氏を倒す。
(改革派の勝利!) - 622年聖徳太子が亡くなる。
- 645年大化の改新
中大兄皇子らが、権力を持ちすぎた蘇我入鹿を倒す。
ここで重要なのは、
「最初は味方だった蘇我氏と秦氏・太子の関係が、時間が経つにつれて変わってしまった」
ということです。
一般的な通説:なぜ河勝は「逃げた」のか?
歴史書『日本書紀』によれば、
秦河勝は聖徳太子の「超お気に入り」でした。
しかし、太子が亡くなると、
蘇我氏は次第に独裁を強め、
ついには聖徳太子の一族(上宮王家)を滅ぼしてしまいます。
【よくある説明】
「蘇我氏が、かつての盟友だった聖徳太子の一族まで攻撃し始めた。太子側の重鎮だった秦河勝は、次は自分の番だ!と身の危険を感じ、蘇我氏を避けて坂越へ落ち延びた」
……でも、
これが秦河勝が坂越へ落ち述べた理由だとすると
疑問と矛盾が残ります。
「蘇我氏が倒された(大化の改新)後、なぜ秦河勝は都に戻らなかったの?」
という点です。
歴史の裏側:実は「全員が敵」だった!?
歴史作家の関裕二氏は、
(『寺社が語る秦氏の正体』著者)
この矛盾に鋭い仮説を立てています。
実は、
蘇我氏を倒した「中大兄皇子」たちが目指していたゴールは、
蘇我氏以上の「超ガチガチの管理社会(律令国家)」でした。
- 律令国家とは?: すべての土地やお金、技術を「国(天皇)」が直接支配すること。
秦河勝率いる「秦氏」は、
自分たちで築き上げた独自の技術や地盤を持っていました。
彼らにとって、
「蘇我氏が勝っても、中大兄皇子が勝っても、自分たちの自由や財産が国に取り上げられることに変わりはない」
という状況だったのです。
関氏の説によれば、
秦河勝は中大兄皇子らと協力して、
かつての盟友・蘇我氏を倒したものの、
その後の「新政権」のやり方にもついていけず、
居場所を失って坂越を選んだ……
というのです。
知っておきたい「秦氏」という集団の正体
「氏」という漢字を使っているため、
分かりにくい点を補足しておきます。
「秦氏」は一つの家族ではなく、
大陸から来た「プロ技術者たちの連合軍」です。
秦河勝はその巨大組織のトップ。
彼は「誰が勝っても自分たちの自由はなくなる」と察知し、
天然の良港であり、都の権力が届きにくい坂越
を「新天地」として選んだのかもしれません。
もし、そうだったのだとするならば、
秦河勝の死後、
彼が伝えた養蚕や土木技術が、
律令国家の経済基盤となったのは、
なんとも皮肉です。
結び:歴史は「勝者の物語」
歴史は常に、勝った側にとって都合よく書き換えられます。
NHKドラマ『大化改新』(岡田准一さん出演)などを見ると、
当時の渡来人たちがどれほど重要な役割を果たし、
そして翻弄されたかがよく分かります。
坂越の船渡御祭りの厳かな雰囲気。
それは、都の壮絶な喧嘩に愛想を尽かし、
あえて静かな入江を選んだ実力者・秦河勝の「誇り高い決断」が、
1400年経った今も息づいている証拠なのです。
歴史は暗記じゃなくて、人間ドラマ!
赤穂の皆様。
よければ秦氏について学びましょう笑
え?
坂越・大避神社を楽しむ周辺知識シリーズ
地元赤穂大好き
(うそ、そこそこ好き)
の私としては、
赤穂の歴史にも
皆様に興味を持ってほしいと思うのですが、
秦野河勝といったキーワードを深堀しようとすると
日本書紀だったり荘園の扱いだったり
かなりマニアックな知識が必要で、
とっつきにくいのです。
もし、
中学生や高校生が赤穂について調べようと思っても
なかなか深堀出来ない領域です。
私が学んだことを、
出来うる限り高校日本史レベルに落とし込み
お話ししていこうと思います。
ゆるゆると♪











