赤穂市の塾で、中学2年生の国語を見ている。
先日、外山滋比古「実のある話」を扱った。扱ったといっても私に意図はなく問題集に登場してきただけだ。
庭に一本あるみかんの木の話から始まる随筆である。
花は咲くが実はつかない。ようやく実がなったと思えば、ひとつの実に六十枚もの葉が必要だという。放っておけば実は小さく、味も落ちる。だから摘果をする。心を鬼にして、なりすぎた実を落とす。
筆者はそこから教育へ話を移す。
みかんだって、痛い思いをしてりっぱな実をつける。やはり、心を鬼にしなくてはならなくなってしまう。
剪定と摘果に相当することを、人間にもすべきである。本文にはそう書かれている。
ある生徒の「間違い方」
この教材で、ある生徒が選択肢を間違えた。
間違い方に特徴があった。道徳的に正しいとされる選択肢を選んでいたのである。
興味深いのは、その「道徳的な正しさ」が本文中にも書かれているという点だ。筆者は確かに、実を落とすことへのためらいにも触れている。だから生徒の読みは、まったくの的外れではない。
ただし、設問が問うているのは筆者の論の骨格である。
本文で言えば「摘果/剪定は必要である」という主張の筋道だ。ためらいの記述は、その主張に至るまでの経過として置かれているにすぎない。
論理的に読むとは、そういうことである。
書かれていることのうち、どれが主張で、どれが前提で、どれが譲歩なのかを識別する。すべての文が等価に並んでいるわけではない。
私はこの生徒に、国語の「途中式」を書かせている。
数学では、答えに至る過程を式で残す。どこで間違えたかが後から分かる。国語でも同じことができる。なぜその選択肢を選んだのか、根拠は何行目にあるのか、それを書き残させる。
「なんとなく」で選んだ答えは、合っていても次につながらない。
なぜ間違えたのかを本人に言葉にさせる。
この作業については、こちらに書いた。
「褒めて育てる」という六文字
ここからは本文を離れる。
「褒めて育てる」という言葉がある。
この方向性が妥当であることを、いま正面から否定する者は少ない。叱責の効果については、むしろ否定的な研究が積み上がっている。ドイツの科学ジャーナリスト、ニコラ・シュミットは「叱ることは今や多くの研究によって効果がないことが証明されている」と述べているし、臨床心理士の村中直人も、叱るという行為が一般に考えられているほどの効果を持たず、副作用も多いことを指摘している。
問題は、この言葉がどのように流通しているかである。
「褒めて育てる」を主題とする書籍は数多い。仮にそれらの総量を五万字としよう。五万字を読み通して初めて理解できる内容が、そこには書かれている。
そして、その五万字を要約すれば「褒めて育てる」という六文字になる。
要約は、要約である。
五万字が六文字に圧縮される過程で、何かが落ちている。落ちたものは、読者の手元には届かない。
要約を受け取った者に起きること
教育相談の現場からは、この要約が引き起こす不調が報告されている。
石田勝紀氏は、年間およそ三千件の個別相談に応じるなかで、「褒めても響かない」「叱らないようにすると甘えがエスカレートする」という行き詰まりの訴えが、ここ数年で急増していると述べている。SNSや書籍で広まる言葉を、本質を理解せずに表面だけ模倣した結果である、と。
同じ言葉を使っていても、五万字を読んだ者と六文字を受け取った者とでは、内実が異なる。
要約によって落ちているものの一例
何が落ちているのか。
分かりやすい例を挙げる。
よく言われている例なので目新しいことはない。
キャロル・ドゥエックの一連の研究によれば、褒め方によって子どもの行動は逆方向に変わる。
能力を褒められた子どもは、失敗を避けるようになる。「頭がいい」と言われた子は、その評価を失わないために、確実に解ける課題を選ぶ。
努力や過程を褒められた子どもは、困難な課題に挑むようになる。「よく粘った」と言われた子は、粘ること自体が評価されると学習するからである。
つまり、褒めるという行為は、何を褒めるかによって機能が反転する。
「褒めればよい」という六文字は、この区別を含んでいない。含んでいないのではなく、要約の過程で落ちたのである。
叱るという記述も、たいてい書かれている
もう一つ、落ちやすいものがある。
私が読んだかぎりでは、「褒めて育てる」を扱った本の多くに、どこかで「叱る」の話が出てくるように思う。
叱るな、とは書かれていない。叱る場面を限定せよ、と書かれていることが多い。少なくとも、私はそう読んできた。
ところが六文字だけを受け取った者には、その限定が届かない。叱ること自体が否定されるべき行為であるかのように受け取られる。
私自身は、こう考えている
ここは研究の話ではない。現場での実感である。
私は、叱る場面が二つあると考えている。
ひとつは、生命や安全に関わるとき。これは説明の要がない。
もうひとつは、本人の基準を引き上げるとき。
ある水準で満足している生徒に対して、その水準が不十分であることを伝える場面である。形としては叱責だが、機能としては基準の提示に近い。
ただし、「その程度の点数で良いのか」とは言わない。
「そのプロセスはダメだ」とは言う。
点数は結果である。選べるのはプロセスのほうだ。
褒めるという行為も同じ構造を持っており、何を褒めるかを選んだ時点で、褒める側は基準を示しているからだ。
褒めると叱るは、対立概念ではなく、どちらも「どこに線を引くか」を伝える手段である。対立するのは「褒める」と「褒めない」であって、「褒める」と「叱る」ではない。
繰り返すが、これは研究の裏づけがあって言うのではなく現場で見てきた実感にすぎない。
ただ、褒めると叱るを同じ軸の上にあると考えている者が書いた五万字と、別物として扱っている者が書いた五万字とでは、同じ「褒めて育てる」に要約されても、中身は別物である。
私が正しいと言いたいわけではない。
述べたいのは、「わかりやすさ」や「抽象的な言葉」の危うさである。
これをリテラシーという
リテラシーという語は、しばしば「読み書き能力」と訳される。社会の教科書や国語の教科書に何度も何度も登場し、大人の世界でもメディアリテラシーという言葉が多く流通している。
だが現在この語が担っているのは、もう少し狭く、実務的な意味である。
与えられた情報が、どのような過程を経て自分の手元に届いたのかを見積もる能力。
要約されたものを要約として扱い、背後にある情報量を推定する能力。
結論だけを受け取ったとき、その結論を支えていた条件や例外を想像する能力。
これらを総称してリテラシーと呼んでいる。
「褒めて育てる」を疑えというのではない。疑うべきは、六文字で理解した気になっている自分の読み方なのだ。
偉そうに生徒に「教える」私は、少し怖くなってこの記事を書いているのだろうと思う。
国語の記述を具体的に書かせる理由

本題に戻る。
国語の記述問題では、原則として、具体的に書けることは具体的に書かねばならない。
「がんばったから」では不可である。何をどのように続けたのかを書く。「かわいそうだから」では不可である。何に対してどう感じたのかを書く。
抽象語で済ませれば、記述は短くなる。採点者も、書いた本人も、何となく通じたような気分になる。
だが、抽象語は内容を持たない。
持っているように見えるだけである。
具体を書かせるのは、採点の都合ではない。抽象語に逃げる癖をつけさせないためである。
「褒めて育てる」も「リテラシー」も、それ自体は抽象語にすぎない。五万字の裏づけを持つ者が使えば内容を持つが、六文字だけを持つ者が使えば、ただの音になり、意味を持たない。
具体なき言葉に、意味はない。
似たような話が、一冊になっている
ここまで書いたようなことは、多くの場面で語られている。
Willbe図書館からいくつか紹介すると武田砂鉄『わかりやすさの罪』である。
わかりやすく伝えようとするとき、何が削ぎ落とされるのか。削ぎ落とされたせいで、何が伝わらなくなるのか。それが一冊を通して書かれている。
本稿が扱ったのは、中学生の記述答案という、はるかに小さな場所の話である。
小さいが、構造は同じだと思っている。
Willbe図書館の棚にある。
読みたい者は、持って帰ればよい。
読書礼賛ではない
私は、読書がすべてを解決するとは思っていない。
経験主義を全面的に肯定する。
具体的経験を通して、抽象的な言葉を理解できるのだと私は思う。
本当はそういうわけではないのだが、これ以上は、言語論の話になってしまうので一旦割愛する。
しかし、人生に必要そうなことを全て体験できるわけがない。
読書というものも立派な疑似体験にはなりうる。
そういう意味で、本は良いのだと思う。
なぜなら、「わかりやすさ」に終始しないからだ。
話しがまったく外れてしまうが、
数学をすきになって欲しいと思う人が、よかれと思って分かりやすい動画をYouTubeにあげていることが多い。
覚えることを覚えなければ数学が出来ないにも関わらず、
出来ることが少ないと新しいことを習得するにも倍の時間が必要になってしまうにも拘わらず、
「分かりやすさ」をつかって「分かった気にさせてしまう」傾向がある。
数学の成績が低いにも関わらず「公式は覚える必要がなく、導出すれば良い」などという高校生が増えた気がする。
分かりやすさは、やはり大いなる勘違いを生むようにしか思わない。
分かりにくさから逃げてはいけない。
英語でも同じことをしている。
「なんとなく読めました」で先へ進ませない。
参考
外山滋比古「実のある話」
武田砂鉄『わかりやすさの罪』朝日新聞出版
石田勝紀「『褒める・叱らない・見守る』をがんばる親ほど苦しくなる理由」東洋経済オンライン
ニコラ・シュミット『怒らないをやってみた子育てライフ』
Carol S. Dweck の一連の研究
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