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現代文あるある③【西洋とその他の社会】

現代文あるある



「現代文はセンスですか?」

確かに、なんとなく読めて、なんとなく選べる子もいます。

けれど、それは“才能”なのでしょうか。

私は違うと思っています。

それは「背景知識の差」です。

前回までは前近代から近代への歴史の流れを確認しながら、

  • 共同体と個人
  • 自然と人間

といった現代文あるあるを見てきました。

今回は20世紀へ進みながら、

「西洋近代化とその他の社会」

といった「あるある」をお話ししてまいります。

一見、歴史の話に見えます。

しかし本質は、「ものの見方」の話です。

理系の方も「物理の発展」「数学の発展」といったテーマでも同じような流れを扱うことがあります。

よければhttps://ako-juku.com/gendaibun-2/から読み進めていただきますと、物理のミクロな世界を理解できる助けになるかもしれません。





近代化西洋とその他の社会

現代文でよく出るテーマ。

それが、

「西洋近代」と「それ以外の社会」です。

一見、歴史の話に見えますが、要は「ものの見方」の話です。

中学歴史では、「ものの見方」を理解するために歴史を学んだと言っても過言ではありません。

近代以降、

科学は発展しました。

民主主義も広がりました。

個人の自由という考え方も生まれました。

けれど同時に、

植民地主義。

自然破壊。

文化の画一化。

といった問題も生まれました。

もし人間の理性が世界を正しく導くのなら、

なぜこのような矛盾が生まれたのでしょうか。

20世紀の思想家たちは、ここに疑問を持ち始めます。

「人間は本当に世界の主人なのか?」

「私たちは本当に自由に考えているのか?」

こうした問いから生まれたのが、

構造主義という「ものの見方」です。

少し寄り道になりますが、

ここを知らないと「西洋近代 vs その他」というテーマは理解できません。

少しだけお付き合いください。

あまりにも単純化しすぎている点などご容赦いただいて、ざっくりとご理解ください。


【第1章】構造主義はなぜ人間中心主義を疑ったのか

結論から言います。

「人間が世界の中心で意味を作っている」という考えを否定した。

これが構造主義の革命でした。

唐突な言葉ですが、今から詳しく話します。


① 近代=人間中心主義になりやすかった

まず前提。

現代文で何をやらされているか分からなくなったらこれを読め①②で触れてきたように、

近代西洋ではこう考えました。

  • 世界は人間が理解できる
  • 人間の理性は自然より優れている
  • 人間が意味を与える

ここにいるのが

ルネ・デカルト

です。

有名な

我思う、ゆえに我あり。

つまり。

  • 世界を疑っても
  • 「考える自分」は確実。

ここから

主体(人間)が中心になる世界観

が生まれやすい状況になります。



人間中心主義というと

差別的思想に思われるかもしれませんが、

人間(個人)を中心にみていると

「世の中が見えていない」

ということを言っているだけです。



近代は「分けること」で発展した

近代西洋は、世界を分けることで理解しようとしました。

  • 主体/客体
  • 自然/人間
  • 理性/感情
  • 文明/未開

つまり、
人間が自然を観察する対象になったのです。

  • 人間=主体(考える側)
  • 自然=対象(観察される側)

科学もここから発展します。

だから、分析する、数値化する、利用する自然支配へ進みました。


② 構造主義「いや違うでしょ」

20世紀。

学者たちは気づきはじめます。

「本当に人間が意味を作っているのか?」

と。

ソシュール自身が近代哲学を批判したわけではありませんが、その視点は結果的に人間中心主義を揺さぶることになります。


言語の場合

フェルディナン・ド・ソシュール

彼は言いました。

人が自由に意味を

決めているわけではない。

例えば。

「犬」と呼ぶか「dog」と呼ぶか。

あなたが決めましたか?

決めていません。

生まれた時にはもう決まっています。


つまり。

人間は言語を使っているのではなく
言語の中で考えている。

生まれたとき、すでに構造の中にいる。

つまり、

人間 は言葉を使う主体

ではなく

言葉(構造)が 人間の思考を形づくる

という逆転です。

人間が考えるから

言葉が生まれたわけではなく、

言葉が人間の思考を作っているのだと

言っています。

言語は、
個人の意志で自由に決められるものではない。

言語は「差異の体系(システム)」である。

難しいですね。

大丈夫です。

そのまま読み進めてください。

徐々にゆっくり参りましょう。


ソシュールのここが重要

近代:

人間 → 言葉を使う主体

構造主義:

言葉(構造) → 人間の思考を作る

逆転しました。

人間中心主義批判の文脈で

ソシュールが人間中心主義を批判したわけではないですが、

構造主義という「ものの見方」は、

理性を持ったからといって勘違いするのではない。

観察して、ルール(体系)を決めて、

人間が分かったようになっているんじゃない。

もともとルールは存在するんだ。

人間はルールのなかで考えているに過ぎない。

個人よりも先に、社会的な体系がある!!

その枠組みに「目を向ける」のが構造主義だ。

と言う雰囲気だとも言えます。



ここでいうルールは「神様のルール」とは少し違います。

人間の営みのなかで

無意識につくってきた「関係性」という意味です。


近代的自我にからめると

「私(主体)は自律してない」

とも言えるでしょう。




ゆっくりいきます。



③ 人間は「主人」ではない

さらに進みます。

クロード・レヴィ=ストロース

彼は世界中の神話を研究しました。

すると。

世界中の神話に似た構造がある。

人々が自由に作ったならバラバラになるはず。

でも違った。

西洋神話と日本神話の共通点

創世記と古事記の比較はレヴィ=ストロースの主な研究ではありません。

実際の研究は南米(神話/先住民)などが中心ですが、分かりやすさを優先するために具体例としてだしておきます。

① 世界のはじまりを語る「創世神話」
  • 西洋:創世記
  • 日本:古事記

どちらも
「世界はどのように始まったか」を語ります。

兵庫県民/赤穂市民としては、
日本創世について知っておいて損はないでしょう。

天の神々は、男女の神である
イザナギ と イザナミ に命じます。

「このただよう国を固め、形ある島にせよ。」

イザナギとイザナミは、
天から天の沼矛(あめのぬぼこ)を海へ差し入れ、
ぐるりとかき混ぜました。

矛を引き上げると、先から落ちた潮が固まり、

最初の島が生まれます。

それが――

淡路島(おのころ島)

2人はそこへ降り立ち、柱のまわりを巡って契りを結び、次々と日本の島々を生んでいきました。

こうして国が始まったと、
古事記 と 日本書紀 は語っています。

西洋の場合なら

はじめに、世界は混沌としていました。

地は形なく、闇が深淵をおおっていました。

そのとき、神が言います。

「光あれ。」

すると光が生まれ、
光と闇が分けられました。

神は、

  • 天と地を分け
  • 海と陸を分け
  • 植物と動物を生み

最後に、人間をつくります。

神は自らのかたちに似せて人を創った。

これが
創世記 に語られる世界のはじまりです。

② 神と人間の関係を説明する
  • 神が世界をつくる
  • 神の意志が人間の運命に関わる

人間は「絶対的な存在」ではない。


③ 自然を神話化する
  • 太陽・海・雷などが神格化される
  • 自然は単なる物質ではなく意味をもつ存在

おかしいですよね。

古事記は、西暦712年

旧約聖書は、紀元前1200年頃〜
(諸説あり)

似たような話があります。

これ以外にもたくさんあります。

なぜ、知り合うはずのない日本と西洋で同じような話があるのでしょうか?



もちろん歴史的交流の可能性など様々な説明がありますが、
レヴィ=ストロースは「構造」という視点から読みました。

つまり。

人間の無意識の構造が物語を作っている。


ここで爆弾が落ちます。

つまり、

構造主義の人たちが指摘したことは、

人間は自由に考えていない?

つまり私たちは「自由に考えている」と思っています。

しかし本当にそうでしょうか?

ということです。

  • 言語
  • 神話
  • 文化
  • 親族制度

すべてに構造(関係)がある。

人間はその中で動いているだけ。


④ 人間中心主義の崩壊

近代:

人間が世界を理解する。

構造主義:

人間も構造の一部。

つまり。

人間は特別な中心ではない。

世界を説明する“主人”でもない。

ここで「現代文あるある」に戻ります。

もし筆者が「人間は自然を支配してきた」と書いていたら、
それはどんな前提に立っているでしょうか。

ここが、人間中心主義を読むポイントです。

構造主義はこう言います。

「私」と「それ以外」だけで世界を説明するのは無理。

「私」が世界を見る前に、
すでに世界のルールの中にいる。


⑤ だから自然観も変わる

近代:

  • 人間 > 自然

構造主義:

  • 人間も自然も関係の中の位置。

レヴィ=ストロースは言いました。

未開社会は遅れているのではない。

彼らは別の分類体系を持っているだけ。

つまり、
「西洋が進んでいる/他は遅れている」という見方自体が、
すでに一つの“分類”だったのではないか。

ここまでが20世紀前半の大きな転換です。












第2章 西洋=進歩という物語は本当か?

本章では、
「西洋=進歩」という前提を疑います。

西洋が悪い、
と言いたいのではありません。

問いたいのは、

「進歩」という言葉は、どのような前提の上に成り立っているのか?

ということです。

①進歩という“直線モデル”

繰り返しますが、

  • 科学
  • 産業革命
  • 民主主義
  • 個人主義

これらを生んだのが西洋近代です。

一方で、

アジアやアフリカは
西洋人によって
「伝統的」「前近代的」「未開」と描かれてきました。

近代ヨーロッパは「発見→分類→支配」の視線を強め、
その結果として“進歩の物語”が組み立てられました。

奴隷貿易が拡大した15〜18世紀の近代ヨーロッパは

大航海時代と科学革命を経て
世界を「発見し、分類し、支配できる対象」
として捉え始めた時代でした。

理性を持つ主体(=ヨーロッパ人)
としての人間が称揚されたのです。

また、
「人間」という言葉の範囲は決して普遍的ではなく、
しばしば西洋社会の内部に限定されていたのです。

つまり、
西洋人=人間
「西洋以外は遅れている」と描かれるのです。

でも本当にそうでしょうか?

ここで構造主義の人たちは、
「進歩」という言葉を疑い始めます。


② 構造主義は何を疑ったのか

構造主義は「西洋が間違っている」と言ったのではありません。

彼らが疑ったのは、

進歩という考え方そのものの前提

でした。

構造主義は“見方”の革命です。

文化人類学は、その見方を武器に「進歩」の物語を現場(他の文化)でひっくり返しました。

構造主義=理論
文化人類学=実践

この表現も正確ではないですが、分かりやすさのための理解としては、問題ないでしょう。

つまり、文化人類学全体が構造主義というわけではありませんが、レヴィ=ストロースは両者を強く結びつけた代表的な人物です。


文化人類学が崩した「進歩」の物語

19世紀の西洋では、

社会は

未開 → 野蛮 → 文明

と一方向に直線的に進む、

と考えられていました。

今ではちょっと想像ができません。

西洋が最も進んでいる。
その他の社会は“途中段階”で未熟な存在だと思っていたのです。

こうした見方が、植民地主義の正当化にもつながりました。

第2次世界大戦後もなお、
「発展途上国」「開発途上国」「後発開発途上国」といった言葉が使われ続けます。

つまり、
「進歩」という言葉には、
すでに「優劣」の構造が含まれているのです。


文化人類学の登場

ここでもう一度、(第1章で触れた)レヴィ=ストロースが効いてきます。

彼は言いました。

未開社会は未熟なのではない。

私たちとは異なる論理を持っているだけだ。

これは革命的でした。

革命的と表現せざるをえないことに
驚きを感じてください。

社会の上下など存在しない―
今なら当たり前に思えることです。 

しかし、当時は違いました。

構造主義が示したのは、

「1つの尺度で世界を測る」こと自体への疑問でした。


直線ではなく、複数の合理性

近代は、

理性を中心に据えました。

効率
合理性
生産性

を重視します。

しかし文化人類学は、

自然と共生する暮らし
共同体重視の価値観
循環型社会

といった社会にも、独自の合理性があることを示しました。

ここで重要なのは、

西洋近代 vs その他

という対立ではありません。

異なる世界観の並存

という視点です。

進歩は一本道ではない。

複数の合理性がある。

これが20世紀思想の大きな転換でした。

まとめ

ここで現代文に話を戻します。


高校現代文でよく出る文章は、

・近代は人間中心主義だった
・しかし20世紀にそれが疑われた
・単一の価値観では世界を測れない

という流れをたどります。

つまり現代文は、

「どちらが正しいか」

を問うているのではありません。

問いはこうです。

あなたは、その“前提”に気づいていますか?

近代は世界を分けて理解しました。

主体/客体
文明/未開
進歩/遅れ

構造主義は言いました。

その分け方自体が、すでに一つの“見方”ではないか?

ここが現代文あるあるです。

・二項対立が出てきたら疑え
・優劣の物語が出てきたら前提を探せ
・「唯一の正解」を提示してきたら構造を見ろ
・「Aは正しい/Bは間違い」と言い切らない文章は、たいてい“前提”を疑っている
・筆者がやたら「当然」「普遍」「自然」と言い出したら、その言葉が疑われる合図

これが今回お伝えしたかったことの結論です。



次回「近代芸術」

ここまで見てきたように、

20世紀の思想は、

「人間が意味の主人である」という前提を揺さぶりました。

言葉も、神話も、文化も、

私たちが自由に作っているのではなく、

すでにある「関係」や「構造」の中で成立している。

では――

その「主体」は、

どこで最もはっきり姿を現すのでしょうか。

それが

芸術です。

芸術は、

その時代の人間が

世界をどう見ていたのか

を最も露骨に映し出します。

神のための芸術から、

「私が見る世界」へ。

そして、

意味そのものを問い直す芸術へ。

次回は、

近代芸術を通して、

「主体」の誕生と揺らぎを見ていきます。

つづく。


現代文読解OS 背景知識アーカイブ

〜「背景知識」を知れば、評論文はもっと読める〜

近代が生んだ「自由」と、それゆえの「孤独」。すべての議論の出発点。

人間中心主義。自然を「分析・利用」する対象と見る近代の視点。

言語は単なる道具ではない。私たちが世界をどう認識するかを決める「枠組み」である。

作品の価値は「文脈」で決まる。神から人間へ、主体の誕生と揺らぎ。

損得の「交換」を超えた「贈与」。人間関係を支える目に見えない呪力。

レヴィ=ストロース。「未開」は遅れているのではなく、別の論理で世界を捉えている。

正(A)と反(B)がぶつかり、高次の(C)へ。葛藤を成長に変える思考の型。

この記事を書いた人
光庵良仁

個別指導塾Willbe塾長(代表)
光庵 良仁
(コウアン ナガヒト)

●1983年6月17日生
●赤穂市出身
●赤穂高校卒
●立命館アジア太平洋大学卒

2019年3月兵庫県赤穂市に「個別指導塾Willbe」を開校。Willbe理念は「赤穂市に最高の大学受験環境を」。

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