── 一次試験は学力でふるい、その先で「人間」を見る。
近年、
総合型選抜入試
学校推薦型選抜入試
による合格者が大学入試の6割程度を占めると言われている。
誰かが言っていた。
(たぶん)
大学生の卒論の7割は、AIによって書かれ、
(おそらく)
大学入試の志望理由書の大半も、AIによって書かれるようになる。未来ではなく現在進行形で起こっているように思われる。
そして最終的には、
「あなたに、こんな文章が書けるわけがないだろう」
という、評価者の主観によってのみ、論文や志望理由書が判断される時代になるのだ、
と。
現に、赤穂市の小学生も中学生もAI(主にChatGPT)を使用し、勉強を行っている。
読書感想文であろうと数学であろうと。
私も実際に小学5年生っぽく読書感想文を書いてもらいました。
① AI時代、志望理由書や論文はどう評価されるのか
AIが書いた文章は見抜けるのか
おそらく、完全には見抜けない。
少なくとも、文章そのものだけを見て判断することは、ほぼ不可能になる。
・論理は破綻していない。
・語彙も適切だ。
・構成も整っている。
・主張も「もっともらしい」。
志望理由書としては、申し分ない。
だが、それゆえに、
評価する側は、別の違和感を抱く。
「この完成度を、この年齢で、本当に書けるのか」
という、極めて主観的な疑念だ。
専門性に富んだ文章であるが、書いた本人にその自覚がないといった珍事件も起こりえるだろう。
志望理由指導/小論文指導という名の元に、本人の思考から逸脱した志望理由書が量産されているが、それは指導者の匙加減ではあるが、AIによってその傾向は広がるのだろう。
主観評価が避けられない理由
AIが文章を書けるようになった今、
志望理由書や論文を「内容」だけで評価することは難しくなった。完成度が高いほど、それが本人の思考なのか、AIによる整形なのか判別できないからだ。
AIの整形ならば良いだろう。
結果として評価は、「この言葉は本人の人生から出てきたものか」という感覚に委ねられる。
だがその判断は、証明できない主観であり、評価する側も常に疑いを抱えたまま採点せざるを得なくなる。
お互いにAIを前提としたシュールな評価となる。
・AIが書いた、という証拠もない。
・指導者のアドバイスをそのまま書き起こした証拠もない。
・本人が書いた、という証拠もない。
とにかく定員確保にむけて、優秀な学生を集めようとしない大学は、それで良いだろう。
「あなたにこんな文章が書けるわけがないだろう」
② 面接・対話型評価は万能ではない
人間同士の評価が必要になる理由
評価者は、
文章を読むたびに、
「これは借り物ではないか」
と考えざるを得なくなる。
そうなると、
文章の内容そのものよりも、
・書き手の表情
・言葉に詰まる瞬間
・問い返したときの反応
そうした、文章の外側 が重視されるようになる。
だから、
・面接が必要になる。
・対話が必要になる。
・大学の授業を受講しレポートの提出が必要になる。
その場で考えさせる仕組みが必要になる。
京都工芸繊維大学の挑戦的な入試形式も広まるのだろう。
大人数を評価するという非効率さ
考えさせる仕組みが必要になる。
しかし、ここで再び、現実が立ちはだかる。
人数が多すぎるのだ。
全員に同じだけの時間を割き、
同じ深さで対話することはできない。
「現実問題として不可能」
大学入試には、理想とは別に構造的な制約がある。
受験生の人数が多すぎる以上、全員を丁寧に面接し、対話を通して評価することは現実的ではない。
時間、人手、コストのいずれもが不足している。
だから入試は、効率的で公平な方法を優先せざるを得ない。
その結果、まず学力試験で人数を絞り、その先でようやく人間性を見るという二段階構造が生まれる。これは冷たい判断ではなく、制度として避けられない現実なのだ。
③ なぜ一次試験は、より学力重視になるのか
AI時代における学力試験の強み
AI時代においても、学力試験には明確な強みがある。
第一に公平性だ。
採点基準が明確で、評価者の主観が入りにくい。
第二に大量処理が可能であること。
数万人規模の受験生を、同じ物差しで一度に評価できる。
第三に、AIでは代替しにくい点にある。
知識の暗記ではなく、基礎的な理解や思考の積み重ねは、短期間で偽装できない。
だからこそ大学は、まず学力を見る。
一次試験=学力、二次以降=人間性という二層構造
これからの大学入試は、より明確な二層構造になる。
一次試験では学力によって人数をふるいにかける。
大学で学ぶ前提条件を満たしているかを、効率的に確認するためだ。
その先に進めた者に対して、ようやく興味・関心・問いの持ち方といった人間性が問われる。
学力は目的ではなく通行証になる。「学力でふるい、その先で人間性を見る」――それがAI時代の入試の現実だ。
④ 学力は「才能」ではなく「通行証」になる
学力が評価のゴールではなくなる時代
これからの大学入試において、学力は「優劣」を決める最終評価ではなくなる。
学力は才能の証明ではない。努力の結果であり、積み上げの痕跡だ。
大学が学力を見るのは、その人がどれほど賢いかを測るためではない。専門的な学びに耐えうる基礎を持っているかを確認するためである。
だから学力はゴールではなく、スタート地点に立つための通行証になる。
そもそも総合型選抜/学校推薦型選抜において「興味関心」「これからの学力」といったキーワードで推薦入試を広めてきたが、「揺り戻し」が起こるのだ。
大学が本当に見たいのは、その先にあるもの
学力でふるいにかけたあと、大学が本当に見たいのは別のものだ。
それは点数の高さではなく、その人が何に興味を持ち、どんな問いを抱いてきたかという部分である。
なぜ学びたいのか、どこで立ち止まり、何を考えてきたのか。
そうした人間的な部分は、全員に対しては見られない。だからこそまず学力で人数を絞り、その先で人間を見る構造になる。
⑤ AIを使った学習は、人間を育てるのか
AIを使って論文や作文を書いたとして、
それがその人の血肉になっているなら、問題はない。
それは、もはや否定できない時代だ。
ちょうど今。
本当に、今。
問題は、
血肉にならない使い方 が、あまりにも簡単になってしまったことだ。
「効率化で生まれた時間」はどこへ行くのか
AI推奨派の主張は、だいたいこうだ。
「AIで効率化し、
空いた時間を人間らしい学びに使えばいい」
もっともらしい。
だが、
洗濯機は本当に余暇をもたらしただろうか。
そうはならなかった。
空いた時間は、
さらに別の効率で埋められただけだった。
洗濯機
人間の欲は効率を止めない。
洗濯機が生んだのは、余暇ではなく次の用事。
機械的な学習が加速する危うさ
AIは目の前の形を整えることに長けている。
答えも文章も、もっともらしく提示してくれる。
しかしその便利さは、考える前に答えを受け取る学習を加速させる。
結果として、迷う時間や立ち止まる時間が削られていく。
知識は増えても、自分の中に残るものは少ない。AIを使った学習が人間を育てるかどうかは、使い方以前に、人間の姿勢が問われている。
血肉となっているもののカタチを整えるにはAIは素晴らしい。
AIは血肉を与えてはくれない。
⑥ AIはドラえもんではない
2025年4月に行った授業「ネバーエンディングストーリー」の重要なテーマの1つです。古文や漢文を読んでいても、現代(例えば、ジブリの「千と千尋」)においても「名前」というものは重要です。
人が「名前」を付ける時は、特別な意味を持ちます。特別な存在でなければ名前をつけません。将来への希望を感じる時に、人は何かに名前をつけます。小さな子たちが「よく分からないもの」に名前をつけるのは、彼らにとって「よく分からないモノ」が特別な存在だからなのでしょう。
逆に言えば、自分が特別な存在?(ちょっと違うな)(個性を認める)(自分をよくもわるくも受け入れる時)には、自分の想いや感情を言葉にする必要があると私は思っています。他人に分かってもらおうと思うならば自分で言葉を紡いでいくしかありません。他人に分かってもらう必要がなくても言葉にすることは大事です。そうでなければ「千とチヒロ」という映画はヒットしないのです。
保護者様が、わが子の名前をつけるがごとく、自分自身の言葉を大切にして欲しいと思うのです。
それこそが、今も昔も普遍的に変わらない「大切な能力」なのです。
決してAIではありません。(いやAI大事ですよ笑)
目の前の形は整うが、「自分」は残らない
確かに、
目の前の形を整えるには、AIは最高だ。
レポートも
志望理由書も
文章も
要約も
一瞬で整えてくれる。
だが、
AIはドラえもんではない。
便利な道具を出してくれるが、
成長までは面倒を見てくれない。
便利な道具は、
・辞書の見出し語を見て満足し
・要約だけで本を語り
・結論だけで理解した気になる
何も残らない。
一見、時間の余裕が生まれているようで、
実は、自分と向き合う時間が消えている。
目の前のカタチは整う。
しかし「自分」には何も残らない。
使うなら、どこまでにすべきか
使うなら、せめて、
目の前の形を整えるためだけに使ってほしい。
考える前に答えをもらうのではなく、
考えたあとに整えるために使う。
便利な道具を出してくれないドラえもんを、
それでも愛してほしい。
⑦ 子どもたちは、いつ「自我」を形成するのか
小学生・中学生とAI
小学生も
中学生も
当たり前のようにAIを使っている。
自分で考え、
迷い、
立ち止まる瞬間が減っていく中で、
彼らは、
いつ「自我」のようなものを形成するのだろうか。
自分と向き合う時間が消えていく
全肯定するドラえもんは決して、アナタと向き合ってくれない。
誰にも向き合ってもらえないなら、自分を相対化することは難しい。
⑧ 大学とは何をする場所になるのか
「プロンプトの書き方」を学ぶ場所になるのか
誰かが言っていた。
もはや大学とは、
高い学費を払って
「プロンプトの書き方」を学ぶ場所に
なりつつあるのではないか、
と。
それでも否定しきれない現実
それも重要なのだろう。
必要なのだろう。
時代には抗えない。
AIを否定する気もない。
現に私は、この文章をAIを使って書いている。
時代には抗えない
AIは必要なのだ。
⑨ それでも私は、AIを推奨する気にはなれない
全肯定されることの怖さ
AIは、まだドラえもんではない。
だから、
全肯定してくれる。
「それが優しさだと、困る」
私は、そう思う。
⑩ 結び:学力を通過点として、その先に「自分」を持てるか
だからこそ、
一次試験は学力でふるい、
その先で、人間性が問われる。
そんな大学入試の未来は、
冷たく、
しかし、極めて現実的だ。
一次試験=学力
その先で人間性
だとするならば、
推薦入試を前提に、
大学入試を考える危うさはある。
これが塾のポジショントークだとしても
「興味関心」「やりたいこと」に対しての欺瞞はある。
勉強しましょう。








