前回は「共同体」と「個人」を対比することで浮き彫りになる「近代的自我」について解説しました。
本日は、派生のテーマとして「自然と人間」を大雑把にお話ししてまいります。
厳密には言葉の歴史と意味はもっと複雑ですが、現代文を読む上ではこの捉え方で十分です。
現代文テーマあるある「自然と人間」
「自然」と「人間(個人)」の関係。
このテーマも頻出テーマでよくみかけます。
昔は人は自然の一部だった
まず定番として、昔は人は自然の一部だった、と語り出します。
昔の人は自然を支配しようとはせず、
自然の中で生きていた。
自然は「共にあるもの」だった。
ここで「調和」という言葉が出てきがち。
(「もののけ姫」「ぽんぽこ」が思い出されます笑)
デカルト 方法的懐疑と理性
17世紀の哲学者 ルネ・デカルト は、
あらゆるものを一度疑うという姿勢をとりました。
これを方法的懐疑といいます。
目で見えるものも、
耳で聞こえるものも、
常識も、伝統も、
すべて一度疑う。
そして、
あらゆるものを疑って最後に残ったのが、
我思う、ゆえに我あり。
つまり、
「考えているこの自分」だけは疑えない、
という結論でした。
私=「考えるもの(精神)」
「私」と「それ以外(客体)」に分類できるようになったということです。
「私の身体」ですら私(精神/意識)ではないのです。
「私の意識」と「私の身体」が哲学的に区別できると考えたのです。
ここで、
主体(主観)と客体(対象)という近代の基本構図が生まれたのです。
みなさんも「客観的」という言葉を使いますね。
ピンと来ないかもしれませんが、
デカルトがいなかったら「客観的」という言葉はないのかもしれません。
(うそです。)
(言いすぎです)
(本当は中世スコラ哲学も触れねばなりません)
「客観的に」は少なくともこの時代のヨーロッパで広がった言葉です。
(大雑把な理解でOKです。)
(細かく言うと私は怒られます😢)
「私の意識」と「私の身体」が哲学的に区別できると考えたから、
デカルトは、
自然を巨大な機械のように考えました。
動物も、身体も、
仕組みとして説明できる。
つまり、
- 自然は分解できる。
- 操作できる。
- コントロールできる。
この考え方が、
産業革命
工業化
科学技術の発展
を支える土台になります。
(ここでデカルトを登場させると悪者みたいに見えますが、そういうことを言いたいわけではないです。デカルトが新しい枠組みをつくったから科学の進歩が加速されたと言いたいのです。)
名前だけでも覚えて帰ってください。
近代=自然を“対象化”する
自然は
中世のヨーロッパ的宗教観では「神が世界そのものをつくった」とされていましたが、
人間中心主義や科学が発達し、
- 分析され
- 数値化され
- 利用されるもの
へと変わった。
神にかわって人間が自然現象を説明しようとする雰囲気へと皮って言ったということですね。
自然は「畏れるもの」から「管理するもの」へ。
ここで出てくるキーワードは
- 客観化
- 対象化
- 合理化
- 支配
です。
人間による自然支配には「理性という優れたものを持つ人間より自然は劣ったものだ」という価値観が生まれてしまいます。
当時の人がそういう言葉で科学に邁進していたかどうかはおいておいて、
今考えると勘違いではないのか?
ということです。
でもそれって本当に進歩/優劣ですか?
便利になった。
効率も上がった。
人間は自然を支配できるようになった。
けれどその結果、
・環境破壊
・気候変動
・自然からの疎外感
が生まれた。
自然を外に追い出したと思ったら、
自分自身も自然から切り離されてしまった。
エアコンの部屋
昔は暑ければ汗をかき、
寒ければ震えていた。
でも今はどうでしょう。
暑い → エアコン
寒い → 暖房
「不快」をすぐ消せる。
一見、快適です。
でもその結果、
・汗をかく力が弱くなる
・体温調節がうまくできない
・少し暑いだけでイライラする
自然(暑さ寒さ)を外に追い出したら、
自分の体も自然に弱くなった。
自然からの疎外感
① 縄文時代 ― 自然の中で生きる
縄文人は
・狩り
・漁
・木の実採集
自然のリズムに合わせて生きていました。
天候が悪ければ食べ物が減る。
季節で生活が変わる。
つまり、
自然=外ではなく、生活そのもの。
自然を「管理する対象」とは考えていません。
② 弥生時代 ― 自然をコントロールし始める
稲作が始まると、
・水を引く
・田んぼを作る
・洪水を防ぐ
人は自然を「整える」ようになります。
ここで自然は
「共にあるもの」から
「管理するもの」へ少し変わる。
③ 江戸時代 ― 自然と共存型社会
江戸は意外とエコ社会。
・循環型経済
・リサイクル文化
・里山利用
自然を使うけれど、壊しすぎない。
まだ自然は身近です。
④ 明治以降 ― 近代化と工業化
ここが転換点。
・工場
・鉄道
・石炭
・大量生産
自然は「資源」になります。
山は木材に。
川は発電に。
土地は工場に。
自然は「数字」で扱われる存在に。
⑤ 戦後高度経済成長 ― 疎外感のピーク
・公害問題
・水俣病
・四日市ぜんそく
自然を支配したつもりが、逆に被害を受ける。
そして都市化が進み、
・土に触れない
・星が見えない
・川で遊ばない
自然は「遠い存在」になる。
これが自然からの疎外感です。
ここで一度ひっくり返します。
人間も自然の一部だ、と言い出す
ここが核心です。
人間は自然を支配する主体ではなく、自然の一部である。
にもかかわらず、
近代は人間を“特別な存在”にしすぎた。
つまり、
「自然 vs 人間という対立構図そのものが問題だ。」
と言い出す。
自然は「外」にあるのではない
最後はたいてい『自然は「外」にあるのではない』となります。
自然は山や海だけではない。
人間の身体も、感情も、老いも、死も、すべて自然。
自然をコントロールしようとする姿勢は、最終的には自分自身をコントロール対象にしてしまう。
感情
怒る、泣く、落ち込む。
これも自然。
でも現代社会では、
- ポジティブでいよう
- メンタルを整えよう
- 感情をコントロールしよう
感情すら「調整すべき対象」になる。
すると、
- 悲しむ自分
- 弱い自分
が「ダメなもの」に見えてくる。
ここで
- 生命観
- 身体性
- 有限性
と話が繋がっていくのが高校現代文です。
生命観とは何か?
簡単に言えば、
命をどういう存在だと考えているか
という「ものの見方」です。
① 生命=資源という見方
近代以降に強まった生命観。
・森は木材
・魚は水産資源
・牛は生産効率
・人は労働力
命が「役に立つかどうか」で評価される。
これは効率的ですが、
命=数字
命=データ
になりやすい。
② 生命=管理できるものという見方
医療や科学の進歩は素晴らしい。
でも同時に、
・寿命を延ばす
・遺伝子を操作する
・能力を最適化する
命が「調整できるもの」になる。
ここで命は、
尊い存在 → 改善可能な対象
に変わる。
③ 生命=関係の中にあるものという見方
もう一つの生命観。
命は単体ではなく、
・自然との関係
・他者との関係
・時間の流れの中
で成り立つ。
森がなければ人は生きられない。
微生物がいなければ消化できない。
人間も自然の一部。
あるいは、
「生態系」を人間が完全に解明できたわけではない。
という論点もあります。
漁業や河川管理の話は、そういう方向性が多いですね。
受験的まとめ
このテーマが出たら、
① 昔=自然との一体
② 近代=自然の対象化
③ 反省=人間も自然の一部
④ 対立を超える視点
この流れを探せば大体読めます。
現代文での自然論は、
結局こういう問いに帰着します。
人間は、自然を超えた存在なのか?
それとも自然の一部なのか?
そして多くの筆者は、
「自然を外に置く思考そのものが近代的錯覚だ」
という方向へ向かいます。
対立を超える視点とは?
簡単に言えば、
AかBかではなく、
AとBはもともと切り離せないのでは?と考えること。
自然 vs 人間 を超える
よくある構図:
自然 = 外
人間 = 内
支配する側
でも本当にそうか?
人間の体は自然そのもの。
・呼吸
・老い
・病気
・感情
全部自然現象。
つまり
自然の外に立つ人間
という考え方自体が思い込みかもしれない。
→ 人間は自然の内部にいる。
これが対立を超える視点です。
具体例 漁業
昔は
たくさん獲る=儲かる
でも獲りすぎると魚が減る。
次の年から儲からない。
そこで
・禁漁期間
・サイズ制限
・養殖技術
魚を守ることが
長期的な利益になる。
自然を守る=経済を守る。
養殖のイメージも悪かったが、
最近は、養殖のほうがおいしいのではないかといった流れが生まれてきた。
自然災害に立ち向かうために護岸工事を行ってきた。
そうすると河口では赤潮も発生しない「キレイな海」になりすぎて、生命が育たない海になってしまった。2026年は漁業壊滅のニュースが多くありましたね。
でも現代起こっていることだから、結果は分からない。
どうなる未来。
実際の出題
2000年度 東京大学 文科一類 国語 第一問
この年の設問では、文章中に
「すべての事象は等しく自然的である」
「人間も自然の一部である以上…」
「生態系の概念には、機械論的に把握された自然の概念よりも豊かな内容が含まれている」
というように、
人間と自然の関係/自然の捉え方
について読む問いが出題されました。
これはまさに
- 「自然とは何か?」
- 「人間は自然とどう関わるのか?」
という近代以降の自然観が問われている問題です。
特に
- 自然=機械的対象として捉える近代的な見方
- それに対するより豊かな自然理解の提示
のような現代文で定番の論点が入っています。
2024年度 兵庫県公立高校入試『藍色ちくちく 魔女の菱刺し工房』
兵庫県公立高校入試でも実際に出題された作品です。
この作品は「人と自然、人と関係性を扱う小説」として採択され(たと私は思っている)、評論だけではなく物語形式でも「人間のあり方」を問われています。
物語は、
- 手仕事(菱刺し)
- 伝統
- 人との関係
- 自然素材との向き合い
を軸に進みます。
この小説は直接「環境問題」とは言いません。出題箇所も高校受験らしく「個人が他人と関係を持つことで変化した」といったテーマではあります。
ただ、怒られそうですが、効率や合理性を優先する現代社会に対して、自然や身体性との関係を問い直す物語だと読めなくもありません。
無粋でした。
次回のテーマ
次回は、「近代化西洋とその他の社会」という視点をお話しします。
「平等」といった言葉を生み出した割に、「先進」と「後進」と分けすぎてしまったことで生じてしまった論点です。







