こんにちは。
兵庫県赤穂市の進学個別指導塾Willbeの光庵(こうあん)です。
今回から、新しいシリーズを始めます。
その名も「赤穂マニアック地域史」。
忠臣蔵でも、赤穂城でも、塩田でもない。観光ガイドにはまず載らない、赤穂の「地元の人しか知らない場所」の歴史を、とことんマニアックに掘り下げていくシリーズです。
記念すべき第1回の舞台は、
千種川をさかのぼった先、山あいの地区。
かぶと虫の里かぶ~んうね、でお馴染み。
(周世なのか有年なのか)
赤穂市「周世(すせ)」です。
- 周世(すせ)は兵庫県赤穂市の地名。平安時代の辞書『和名類聚抄』に「周勢郷」として登場する。
- かつての周世郷は、周世・真殿・牟礼(いまの横尾・有年牟礼・有年原)を含む広い範囲だった。
- 奈良の平城京跡からは「赤穂郡周・・」と書かれた8世紀前半の木簡が見つかっている。
- 周世の高雄山(標高182m)にある神護寺は、天台宗の山寺。京都・高雄の神護寺と同じ山の名前と寺の名前をもち、和気清麻呂や文覚の創建伝承が残る。
- 「神護寺」という名の寺は全国に17か寺。京都・赤穂のほか、和気清麻呂の地元・岡山県に3か寺ある。
- 建物は2015年に全壊。仏像2体は赤穂市の文化財として如来寺で守られている。
私、実は高雄小学校出身です
私は、高雄小学校の出身です。
周世に住んでいたわけではないのですが、同じ小学校区なので、なじみはあります。
そして周世といえば……
山の中の神護寺(じんごじ)。
(え?Googleマップに出てこない?)
(あれ?)
子どものころの私にとって、神護寺は
「遠足で行くところ」
「夏に肝試しをするところ」
以上でも以下でもありませんでした。笑
子どもの頃から「神護寺って何?」という想いは残っています。このブログの「坂越・大避神社シリーズ」で秦河勝を追いかけているうちに、調べはじめたら、止まらなくなり、マニアックすぎてネットで調べても出てこないだろうと記事にしてみます。
今回いちばん頼りにしたのは、地元の研究会「秦氏を学ぶ会」の会誌『秦氏を学ぶ』第3号。その中の、論考「赤穂での秦河勝伝説(その3)―古代赤穂郡開拓者の象徴として」(以下、『秦河勝伝説』)です。
著者がどんな方なのか、じつは私はくわしく存じ上げません。専門の研究者なのか、地元で長く歴史を調べてこられた方なのか……。
ただ、古文書や発掘報告書をていねいに読みこんだ、読みごたえのある一本です。
これを手がかりに、大人になった私が「遠足と肝試しの場所」を本気で掘り下げてみます。
「周世」は、今よりずっと広かった
1000年以上前から記録に残る「すせ」
「周世」と書いて「すせ」と読みます。
赤穂市民でも、初見で読めない人がいるかもしれません。住んでる地域以外の地名は意外と分かりませんよね😢
平安時代の中ごろ(930年代)にまとめられた辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、播磨国赤穂郡の「周勢(すせ)郷」という名前が出てきます。
漢字はちがいますが、1000年以上前から、この土地は「すせ」と呼ばれていたわけです。
周世郷=周世・真殿・牟礼
私は知りませんでした。
むかしの「周世郷」は、いまの周世地区よりずっと広かったんです。
江戸時代の地誌『播州赤穂郡志』(1747年)によると、赤穂郡周世郷は
- 周世
- 真殿(まとの)
- 牟礼(むれ)=横尾・東村・原村
から成っていました。
牟礼というのは、いまの横尾や有年牟礼、有年原のあたり、つまり、千種川をはさんで、周世・真殿から有年の手前までが、ひとつの「周世郷」だったんですね。
高雄小校区の一部
有年小校区の一部
石高で比べると、主役は「牟礼」
同じ『播州赤穂郡志』には、赤穂藩・浅野長直の時代の石高(お米のとれ高)も記されています。
- 周世郷牟礼 1,665石あまり
- 周世郷周世 562石あまり
- 周世郷真殿 650石あまり
なんと、牟礼は周世の約3倍、「周世郷」の中心は、じつは牟礼のほうだったのかもしれません。
(高雄目線の驚き笑)
いや、平地面積から考えれば当たり前ですね💦
石高は時代によって基準が変ったり、正確に調べる方法がなかったり。
たぶん、この時代だと、
1石は、大人1人が1年に食べるお米の量。
つまり牟礼は、およそ1,700人を1年間養えるほどのお米がとれる村だった、ということです。
「すせ」ってどういう意味?
地名の由来には、はっきりした答えはありません。『秦河勝伝説』では、いくつかの読み方が紹介されています。
- 「周勢」=まわりに勢いを与える
- 「周世」=山のまわりの世(村)
- 「洲瀬」=千種川の流れがめぐる瀬
どれが正しいかは、わかりませんが、『秦河勝伝説』に引用されている、民俗学者・谷川健一さんのこの言葉が、私は好きです。
「古い地名は古代史を物語る。だが、切子硝子のように多くの切断面をもっている」
地名は、見る角度によってちがう見え方をするから、おもしろいんですね。
奈良の都で見つかった「赤穂郡周・・」
ここからが、今回いちばんのマニアックポイントです。
平城京から出てきた、赤穂の荷札
1994年(平成6年)、奈良の平城京跡(二条大路ぞい)から、木簡(もっかん)が見つかりました。木簡とは、文字を書いた木の札のこと。都に届けられた荷物の「荷札」として使われていました。
その中に、こんな文字があったんです。
「赤穂郡大原郷 五保秦酒虫赤米五斗」
「戸主秦造吉備人」
「秦(はた)」という名前が、はっきり書かれています。大原郷(有年のあたりと考えられています)に、秦氏を名乗る人たちが住み、都に赤米を納めていた、ということです。
そしてもう1枚。
「赤穂郡周・・」
「周」の字ではじまる赤穂郡の郷は、周勢郷しかありません。
そのため、この木簡は周世郷(周勢郷)から送られたものと考えられています。
赤穂と秦氏をつなぐ「最古の証拠」
これらの木簡は、8世紀前半(奈良文化財研究所の木簡データベースでは710〜756年)のものとみられています。
山中良平さんの研究(『秦河勝伝説』での紹介)によると、これは「赤穂郡と秦氏の直接的な関連性を確認できる最古の資料」なんだそうです。
聖徳太子と秦河勝の時代から、およそ100年後、私たちの住む周世郷や大原郷から、奈良の都へ、お米が運ばれていたということですね。
「秦」と刻まれた須恵器も
さらに、有年牟礼の山田遺跡からは、「秦」と刻まれた須恵器(すえき)も見つかっています。
(須恵器については「坂越・大避神社シリーズ④」で書いています)
山中良平さんによれば、秦氏に関係する横穴式石室の古墳は、有年地区に集中しているそうです。
この古墳群にはいつか行ってみたいと思いながら、、、数年がたっています。
いつか。。。
周世郷の大避神社はどこ?牟礼八幡神社との関係
さて、最初の疑問にもどりましょう。
周世のあたりにも、大避神社があったのか。
牟礼の真ん中にあった「大避大明神」
答えは、『秦河勝伝説』の中にありました。
江戸時代、周世郷牟礼原村の庄屋さんが書き残した『北畠十兵衛覚書』に、こう書かれています。
天明5年(1785年)、
牟礼の三つの村の長が集まって話し合った。
牟礼三村の真ん中に「大避大明神」の社がある。
その祠を新しく建て直した――。
周世郷の大避神社は、牟礼の中心にあったんですね。
その大避神社は、明治38年(1905年)3月18日、牟礼八幡神社の境内に移されました。いまも牟礼八幡神社の中に、大避神社がまつられています。
なるほど~~
なるほど~~
赤穂市の神社分布の謎が少し解けました笑
数年前に作ったグーグルマップ。
赤穂市の神社一覧。
大工内、稲荷……秦氏の村に似た地名
さらに地元民として、おもしろいのは、大避神社があった場所のまわりの地名です。
- 大工内
- 梅垣内
- 荒神田
『秦河勝伝説』は、「これらの地名が、高雄村木津の「大工村」や「稲荷山」など、秦氏とゆかりのある土地の地名とよく似ている」と指摘しています。
木津は、周世から新幹線をくぐって→山陽道くぐって→木津と車で5分~10分程度です。
「秦河勝にしたがってやってきた大工たちが住みついた」という伝承が残る村で、江戸時代には「木津大工」として知られていました。
木津も周世も高雄の中では獅子舞に熱心です。
木津の神社も大避神社です。
秦氏は、土木や建築、焼き物、鉄づくりなど、当時の最先端の技術をもった一族です。大避神社のまわりに「大工」の地名が残るのは、偶然ではないのでしょう。
では、いまの周世地区の神社は?
ちなみに、牟礼八幡神社の社伝によると、牟礼八幡神社は永正元年(1504年)に「周世八幡神社」から分けてまつられたものだそうです。
つまり、いまの周世地区には「周世八幡神社」があるということになります。
周世八幡神社の境内に「大避神社」はあるのかな??心の中では、あって欲しいと思ってしまう笑
神社の変遷も複雑ですよね~~
今度、現地で確かめてきます。
わかったら、ここに書き足しますね。
千種川流域には30をこえる大避神社がある
姫路城のそばにある兵庫県立歴史博物館は、
大避(大酒)神社は千種川流域に多いことから、渡来人系と考えられている
と説明しています。
そして『秦河勝伝説』には、
「赤穂の三十を越す大避神社は千年以上、春秋の祭を中心に億の人々が象徴秦河勝に感謝、大荒大避大明神として開拓者秦氏自身を神と崇めたので国豊かなり」
と書かれています。
坂越の海から、千種川をさかのぼるように並ぶ大避神社。
周世郷の大避神社も、そのひとつだったわけです。
え?
千種川流域に30を超す大避神社?
え?
いま私はパニックです笑
これは今後のテーマになりそうです。
赤穂の神護寺とは?京都・高雄の神護寺との関係
さて、いよいよ神護寺です。
そもそも「神護寺」とは何か
ここで、そもそもの話をします。
「神護寺」というのは、じつはお寺の固有名詞ではありません。
「神を護る寺」。
神社のそばに建てられ、神社のお祭りをお坊さんが仏式で行う役割の寺を「神宮寺(じんぐうじ)」と呼びます。
その別名が、神護寺・神願寺・神供寺・宮寺・別当寺です。
奈良時代、「神様も仏の教えを聞きたがっている」という考え(神仏習合)が広まり、文献に出てくる最初の例とされる715年の越前・気比神宮寺をはじめ、全国の神社に寺が建てられました。
明治の神仏分離で、その多くが壊されたり、独立した寺になったりしています。
赤穂の神護寺も、山王権現の社の「神宮寺」として建てられた寺でした。
だから、山王権現のそばにあり、だから、全国に17か寺もあり(この話はすぐあとで)、名前が同じこと自体は、不思議ではなかったんです。
不思議なのは、「高雄山」という山の名前と、「和気清麻呂」「文覚」という人物まで、京都と一致する言い伝えが赤穂に残っていることです。
この記事の後半では、そこを詳しく書いていきます。
京都にも「高雄の神護寺」がある
歴史好きの方なら、
「神護寺」と聞いて、まず京都を思い浮かべるかもしれません。
私は、
巡洋艦に高雄、台湾の高雄、、、、
とにかく「高雄」に愛着があるぐらいです笑
京都市右京区の山の中、紅葉の名所として有名な「高雄(たかお)」、そこに建つのが、高雄山(たかおさん)神護寺です。
(私は、高雄山の神護寺については詳しくないっ)
京都の神護寺は、こんなお寺です。
- 和気清麻呂(わけのきよまろ)が建てた寺がもとになっている
- 若いころの空海や最澄も、ここで活動した
- 平安時代の終わりに荒れはてたが、文覚(もんがく)というお坊さんが、後白河法皇や源頼朝の力を借りて立て直した
じつは「神護寺」は全国に17か寺ある
ここで、ひとつ調べてみました。
「神護寺」という名前のお寺は、京都と赤穂だけなのか?
答えは、全国に17か寺でした。
| 都道府県 | 所在地 |
|---|---|
| 京都府 | 京都市右京区梅ケ畑高雄町(高雄山神護寺) |
| 兵庫県 | 赤穂市周世(高雄山神護寺) |
| 岡山県 | 総社市長良/高梁市松原町/吉備中央町吉川(3か寺) |
| 奈良県 | 天理市兵庫町 |
| 広島県 | 福山市久松台 |
| 香川県 | 東かがわ市白鳥 |
| 愛媛県 | 西条市北条 |
| 大分県 | 中津市三光田口/大分市鶴崎(2か寺) |
| 岐阜県 | 安八郡神戸町/揖斐郡池田町沓井(2か寺) |
| 埼玉県 | 八潮市上馬場 |
| 愛知県 | 知多郡南知多町師崎 |
| 山口県 | 熊毛郡平生町大野南 |
| 長崎県 | 南松浦郡新上五島町間伏郷 |
目を引くのは、岡山県に3か寺あることです。
岡山は、和気清麻呂の地元です。
さっき書いたとおり、「神護寺」は神社付属の寺(神宮寺)の呼び名のひとつ。だから全国にあること自体は、当然といえば当然です。
それでも、和気清麻呂の地元に3か寺が集まっているのは、偶然なのかどうか。
(各寺の由緒までは調べきれていません。わかったら書き足します)
ちなみに、奈良の神護寺の住所は「天理市兵庫町」、兵庫県民としては、ちょっと反応してしまいます笑
つまり赤穂の神護寺は、
「京都の神護寺を真似した」のではなく、
全国に17ある神護寺のひとつ、なんですね。
だがしかし、
赤穂の神護寺も「高雄山」、しかも創建者は……
赤穂の神護寺があるのは、周世の「高雄山」。
標高182メートルの山で、いまは「赤穂ふれあいの森」として整備されています。
寺の名前が「神護寺」なのは、神宮寺の呼び名なので不思議ではないが、山の名前まで京都と同じ「高雄山」です。
そして、だれが建てたのか。
これには二つの説があります。
- 『赤穂市史』……文覚が、文治年間(1185〜1190年)に開いた
- 江戸時代の地誌『播磨鑑(はりまかがみ)』……天平神護年間(765〜766年)に、和気清麻呂が建てた
……気づきましたか?
和気清麻呂と文覚、京都の神護寺を「つくった人」と「立て直した人」が、そろって赤穂の神護寺にも登場するんです。
神護寺は「周世郷みんなの寺」だった
ここで、『秦河勝伝説』にもうひとつ、とても大事な記録が出てきます。
元禄5年(1692年)、周世の高雄山神護寺のお坊さん・台末釈実乗が書いた『神護寺縁起』。
それによると、鎌倉時代に神護寺を再建したとき、その費用を出したのは、周世郷の周世・真殿・牟礼の人たちだったそうです。
周世郷の村々がお金を出しあって支えた、「郷ぐるみの寺」だったんですね。
(神護寺にお坊さん?あんな山奥に?おん?)
戦国時代に、いちど全部燃えている
天台宗兵庫教区の紹介には、
もうひとつ気になる一文があります。
「十六世紀後半に戦災で全焼した後、再建」。
16世紀後半といえば、
羽柴秀吉の播磨攻め(1577〜80年)や、
宇喜多氏・毛利氏の争いで、
播磨の西のはしが戦場になっていた時代です。
どの戦いで燃えたのかまでは、
書かれていません。
つまり周世郷の人たちは、
鎌倉時代と、戦国の火事のあとと、
少なくとも二度、
この山寺を建て直したことになります。
「郷ぐるみの寺」は、
一度きりの話ではなかったんですね。
大石内蔵助も通った山寺
赤穂の神護寺には、もうひとつ言い伝えがあります。
山王権現の社のそばのこの寺には、赤穂藩の家老・大石家の別荘があったと伝えられています。
- 大石良欽(よしたか/内蔵助の祖父)が寄進した手水鉢
- 大石頼母助良重(たのものすけよししげ)と大石内蔵助良雄が寄進した石灯籠、二対
- 大石内蔵助良雄が寄進したと伝わる霊泉(れいせん)※天台宗兵庫教区の寺院紹介より
- 寺の南側にある、大石一家が月見をしたと伝わる「月見台跡」※同上
そういわれてみると、大石内蔵助の別荘があったと子どもの頃に聞いたような、聴いてないような、その石灯籠をみたような、見てないような。
全壊、そして仏さまのお引っ越し
残念なお知らせもあります。
神護寺は昭和30年代に住職がいなくなり、少しずつ荒れていきました。平成27年(2015年)7月、老朽化した建物がついに全壊してしまいます。
(崩れた建物は本堂ではなく、お坊さんの住まい〈庫裏〉だったのではないか、と赤穂市の教育委員会はみています)
ただし、寺に伝わっていた毘沙門天立像と不動明王立像の二体は、鎌倉時代の彫刻の特徴をもつ仏像として赤穂市の文化財に指定され、いまは如来寺に移されて大切に守られています。
鎌倉時代の仏像。
そして、鎌倉時代に周世郷の人たちが再建したという『神護寺縁起』の記録。
ふたつの話が、同じ時代でぴたりと重なるんです。
ご本尊は不動明王、そして森は県の保全地域
天台宗兵庫教区の紹介によると、 神護寺のご本尊は不動明王です。 如来寺に移された不動明王立像が、 そのご本尊だったのかもしれません。
ところが、辞典(コトバンク「神護寺」の項)には、
赤穂の神護寺は「天台宗、高雄山、本尊は薬師如来」と書かれています。
不動明王なのか、薬師如来なのか。
資料によって食い違っています。
(時代によって変わったのか、どちらかの誤りなのか。如来寺の不動明王立像がご本尊だったのかどうかも含めて、わかったら書き足します)
寺の建物はなくなりましたが、 まわりの森は残っています。 平成2年(1990年)1月16日、 神護寺周辺の森1.4ヘクタールが、 兵庫県の「環境緑地保全地域」に指定されました。 寺が荒れていく一方で、 森のほうは県が守る対象になっていたわけです。
また、同じ紹介には年中行事として、 5月の花まつり、 8月の地蔵盆、 11月のもみじ祭が載っています。 住職がいなくなり、建物も全壊したいま、 これらが行われているのかどうか。 これも、まだ確認できていません。
なぜ京都と同じなのか?|私の仮説
仮説:京都とつながっていた山あいの郷
ここからは、私の考えです。(史料で確かめられた話ではないので、そのつもりで読んでくださいね)
赤穂の神護寺が、本当に文覚や和気清麻呂の手で建てられたのかどうか、それを証明する同じ時代の記録は、見つかっていません。
(いまのところ?)
(私のリサーチ能力では)
「神護寺」という名前は、山王権現の神宮寺だったから、もともとそう呼ばれていたのでしょう。
ただ、赤穂には「高雄山」という山号と、「和気清麻呂が建てた」「文覚が開いた」という言い伝えが残っています。
京都の高雄山神護寺と、同じ山号、同じ二人。
この山号と物語は、京都の高雄山神護寺のものが、いつの時代かに周世の山寺に重ねられた——。
そう考えるほうが自然かもしれません。
ただ、周世郷が京都とつながっていたのは、たしかです。
(この辺は荘園についてかなり詳しくないと理解が出来ないところで、専門家にいろいろ聞いてみたい)
鎌倉時代の周世郷は、京都・大原の法華堂の領地でした。
正嘉元年(1257年)には、周世郷の田んぼをめぐる訴えが、京都の貴族の日記『経俊卿記(つねとしきょうき)』に記録されています。
『秦河勝伝説』にも、
「古来、赤穂と京都の情報は密接である」
とあります。
鎌倉時代に、
周世郷の人たちが神護寺を再建した。
同じ鎌倉時代に、
周世郷は京都のお寺の領地だった。
そして、
京都の神護寺を立て直した文覚も、
鎌倉時代の人。
京都の「高雄山神護寺」の物語が、人やお米といっしょに周世郷へ流れこんできた。
そう考えると、ぴたりと話がつながる気がしませんか?
もうひとつ。
和気清麻呂は、備前国(いまの岡山県和気町)の出身です。赤穂から見れば、峠ひとつ向こうのお隣さんです。
「地元の英雄が、うちの山にも寺を建ててくれたんだ」
と語り継ぎたくなる気持ちもなんとなくわかります。
もうひとつの手がかり:赤穂の神護寺は「天台宗」
ちなみに、
赤穂の神護寺は天台宗のお寺です。
(天台宗兵庫教区の寺院紹介より、山号は高雄山、本尊は不動明王、文治年間に文覚上人が創建、とあります)
一方、
京都の高雄山神護寺は真言宗です。
空海ゆかりの寺で、立て直した文覚も真言僧です。「同じ寺」と考えると、宗派が合いません。
ところが。
さっき書いたとおり、赤穂の神護寺は「山王権現」の社の神宮寺として建てられた寺でした。
山王権現は、比叡山(天台宗)の守り神です。
天台宗の寺のそばに山王社がある、というのは定番の組み合わせなんですね。
しかも播磨は、姫路の書写山圓教寺を中心に、天台宗の強い土地です。
もともと播磨の天台の山寺(山王権現の神宮寺)だったところに、京都の「高雄」という山号と物語(和気清麻呂・文覚)が重ねられた——。
そう考えると、宗派のずれも、山王権現も、すっきり説明がつきます。
ただし。
京都の高雄山寺は、空海が入る前の802年に、天台宗の開祖・最澄が法華会を開いた寺でもあります。
「高雄」と「天台」のつながりは古くからあるので、宗派だけで「無関係」とも言い切れません。
少し詳しく書きます。
京都の高雄山寺は、最澄と空海の「両方」が通った寺で、順番は、最澄が先です。
| 年 | 高雄山寺で起きたこと |
|---|---|
| 802年 | 和気清麻呂の子・広世(弘世)と真綱が、比叡山の最澄を招いて法華経の講義(法華会)を開く。高雄山寺の最初の記録 |
| 804年 | 広世の働きかけで、最澄が遣唐使に加わり唐へ |
| 805年 | 最澄が帰国。和気氏の支援で、高雄山寺に日本で最初の灌頂壇を開く |
| 809年 | 空海が高雄山寺に入る。以後14年間の拠点に |
| 812年 | 高雄灌頂。最澄が空海から灌頂を受ける。名簿の国宝『灌頂暦名』(空海直筆)が神護寺に残る |
| 816年ごろ | 経典の貸し借りや弟子・泰範の件で、最澄と空海が決裂 |
| 824年 | 神願寺と合併して「神護国祚真言寺」=神護寺に。「真言」の名を冠した寺になる |
つまり、高雄の寺を建てた和気氏は、もともと最澄(天台宗)の後援者でした。
ここで、赤穂の神護寺に話を戻します。
『播磨鑑』には、「和気清麻呂が建てた」と書かれていました。
そして赤穂の神護寺は、天台宗です。
「和気氏」と「天台宗」の組み合わせは、真言宗になったあとの神護寺より、最澄がいたころの高雄山寺と相性がいいんです。
もうひとつ。
京都の寺が「神護寺」と名乗るようになったのは824年。
それより前の呼び名は「高雄山寺」でした。
赤穂の寺が「神護寺」より先に「高雄山」を名乗っていたとしても、
おかしくはない、ということになります。
最澄と空海の復習については、こちらを是非。
かなり面白いです。
補足:教科書に出てくる和気清麻呂
ここで少し寄り道です。
和気清麻呂(わけのきよまろ)は、
じつは高校の日本史の教科書にも出てくる人物です。
教科書での出番は、おもに「道鏡事件」の場面です。
道鏡事件は日本史史上結構ヤバい事件です。
- 奈良時代の終わり、称徳天皇にとても気に入られた僧・道鏡(どうきょう)が、天皇の位につこうとした
- 「道鏡を天皇にせよ」という宇佐八幡宮(大分県)の神のお告げが伝えられ、その真偽を確かめる使者として清麻呂が送られた(769年)
- 清麻呂は「天皇の位は、皇族が継ぐべきもの」というお告げを持ち帰り、道鏡の野望を止めた
ところが、そのせいで清麻呂は道鏡の怒りを買います。名前を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と変えられ、大隅(いまの鹿児島県)へ流されてしまいました。
翌年、称徳天皇が亡くなると道鏡は失脚し、清麻呂は都へもどります。その後は桓武天皇に仕え、平安京づくりにも関わりました。
京都の神護寺のもとになった「神願寺」を建てたのも、清麻呂です。
ちなみに、明治から昭和のはじめにかけては、十円札の肖像にもなっていました。おじいちゃん・おばあちゃん世代には「清麻呂=忠義の人」というイメージがあるかもしれません。
中学校の教科書では、道鏡の名前も清麻呂の名前も、ほとんど出てきません。「奈良時代の終わりに、貴族や僧の勢力争いで政治が乱れた」と、ひとことで済まされることが多いんです。実はその「僧」のひとりが道鏡で、それを止めたのが清麻呂です。
高校で日本史を選んだら、
ぜひ思い出してください。
あ、この人、
赤穂の山寺の言い伝えにも出てきたな
って。笑
おまけ:周世郷の最高峰「竜王山」は雨乞いの山
最後に、もうひとつだけマニアックな話を。
周世郷の北、牟礼には「荒山(あらやま)」という山があります。標高316.2メートル、周世郷でいちばん高い山です(『秦河勝伝説』より)。
この山には、竜王山・祇園山・高野須山と、たくさんの呼び名があります。『秦河勝伝説』によれば、それは時代によって、山にまつられる神さまが変わってきたからだそうです。
山の上には、海の神さま「少童命(わたつみのみこと)」をまつる海神社がありました。
(明治43年〈1910年〉に、牟礼八幡神社の宮山の頂上へ移されています)
そしてこの山は、雨乞いの山でもありました。
明治43年ごろまで、たいまつをともし、太鼓をたたきながら尾根を登っていく、必死の雨乞いの行列が見られたそうです。
田んぼに水がなければ、村は生きていけない。
山に祈るのは、命がけのことだったんですね。
また『秦河勝伝説』は、秦氏が海神「わたつみ」を信仰していたという説にふれながら、竜王山の海神は、牟礼にやってきた秦氏がまつった可能性がある、としています。
また、この山のまわりには、高雄山神護寺をはじめとするお寺が建っていて、雨乞いが行われたのではないか、とも考えています。
山奥の神護寺も、
もしかすると、村の人たちの「雨をください」という祈りを受けとめる寺だったのかもしれません。
「知っている場所」が「語れる場所」に変わるとき
子どものころの私にとって、神護寺は「肝試しの場所」でした。
でも今は、
・1000年以上前から記録に残る「すせ」という地名
・奈良の都で見つかった「赤穂郡周・・」の木簡
・牟礼の真ん中にあった大避大明神
・周世郷の人たちがお金を出しあって再建した神護寺
・大石内蔵助の石灯籠
・雨乞いの竜王山
これだけの物語が、あの山のまわりに重なっていると知っています。
場所は同じ。
変わったのは、私の「知識」だけです。
知識が増えると、同じ景色がちがって見える。勉強の本当のおもしろさって、ここにあると思うんです。
保護者の方へ
お子さんの通う小学校区にも、こんなふうに「ただの山」「ただの神社」に見えて、実は深い物語をもつ場所があるはずです。
週末のお散歩のついでに、神社の案内板を一緒に読んでみてください。
「この神社、だれをまつってるんだろう?」
その一言が、社会科や歴史への興味の入り口になります。
忘れてもいいんです。
暗記しなくてもいいんです。
そういう小さな小さなものが積み重なって興味関心が生まれるんです。
子どもが興味関心があるものだけ追いかけるのも良くはないのです。
そして、地元にはこうした歴史をこつこつ調べている研究会があります。
今回の『秦氏を学ぶ』のような地元の会誌は、じつは宝の山です。赤穂市立図書館で閲覧可能です。
生徒のみなさんへ
教科書に出てくる「平城京」「木簡」「和気清麻呂」「空海」「源頼朝」。
遠い奈良や京都や鎌倉の話だと思っていませんでしたか?
でも、1300年前の都の荷札には「赤穂郡」と書いてあるし、京都の神護寺の物語は、赤穂の山の中にも残っている。歴史は、教科書の中だけにあるものではありません。
四国に伝わる「空海の雨ごい」のような世界が、赤穂にもあったのかもしれません。
君が住んでいる町にも、ちゃんと流れています。
次に遠足で山に登るときは、ちょっとだけ足もとの石灯籠を見てみてください。
よくある質問|周世の神護寺
Q. 「周世」の読み方は?
A. 「すせ」と読みます。兵庫県赤穂市の地名で、平安時代の辞書『和名類聚抄』には「周勢(すせ)郷」として登場します。
Q. 赤穂の神護寺はどこにありますか?
A. 兵庫県赤穂市周世の高雄山(標高182m)、現在「赤穂ふれあいの森」として整備されている山の中にあります。建物は老朽化により2015年に全壊し、伝わっていた毘沙門天立像と不動明王立像は赤穂市の文化財として如来寺で保管されています。
Q. 赤穂の神護寺と京都の神護寺には関係がありますか?
A. 「神護寺」は神社に付属した寺(神宮寺)の一般的な呼び名なので、寺の名前が同じこと自体は珍しくありません。ただし赤穂の神護寺は、山の名前(高雄山)まで京都と同じで、創建伝承にも京都の神護寺と同じ和気清麻呂と文覚が登場します。それを裏付ける同時代の記録は見つかっておらず、はっきりした関係はわかっていません。
Q. 神護寺は京都以外にもありますか?
A. あります。「神護寺」という名の寺は全国に17か寺あります(寺院統計サイトの2026年時点の集計)。京都市右京区の高雄山神護寺のほか、兵庫県赤穂市周世、岡山県に3か寺(総社市・高梁市・吉備中央町)、奈良県天理市、広島県福山市、香川県東かがわ市、愛媛県西条市、大分県に2か寺、岐阜県に2か寺、埼玉県八潮市、愛知県南知多町、山口県平生町、長崎県新上五島町にあります。
Q. 赤穂の神護寺は何宗ですか?
A. 天台宗です(天台宗兵庫教区に所属)。京都の高雄山神護寺は真言宗なので、宗派は異なります。赤穂の神護寺が比叡山(天台宗)の守り神である山王権現の社のそばに建てられたことと、つじつまが合います。
Q. 赤穂の神護寺は今も行けますか?
A. お寺の建物は2015年に全壊し、住職もいません。ただし高雄山そのものは「赤穂ふれあいの森」として整備されており、登ることができます。寺の周辺の森1.4ヘクタールは兵庫県の環境緑地保全地域です。仏像2体は如来寺に移されています。
Q. 周世郷の大避神社はどこにありましたか?
A. 周世郷の牟礼(現在の赤穂市横尾・有年牟礼・有年原のあたり)の中心にありました。江戸時代の天明5年(1785年)に建て直され、明治38年(1905年)に牟礼八幡神社の境内へ移されました。
「赤穂マニアック地域史」、次回は?
このシリーズでは、これからも
「地元の人でも素通りしている場所」を掘り下げていきます。
いま私が気になっているのは、たとえばこんな場所です。
- 秦河勝についてきた大工の伝承が残る「木津大工」の村
- 雨乞いの山、牟礼の「荒山(竜王山)」
- 秦内麻呂(はたのうちまろ)が建てたと伝わる、三濃山の求福教寺
「うちの近所のこれ、じつは何なの?」という場所があれば、ぜひ教えてください。
私が本気で調べます。笑
あわせて読みたい:坂越・大避神社シリーズ
シリーズ⓪:聖徳太子前夜の日本|巨大豪族の黄金時代と秦氏の戦略
シリーズ②:日本書紀と秦河勝|「なぜ坂越に?」を歴史から読み解く
シリーズ③:渡来人はどこから来たのか?|海を越えてやってきた「古代の技術者たち」
番外編:秦氏はユダヤ人だった?「日ユ同祖論」と大避神社=ダビデ説を検証
参考にした資料
【主な参考資料】
・「赤穂での秦河勝伝説(その3)―古代赤穂郡開拓者の象徴として」
秦氏を学ぶ会『秦氏を学ぶ』第3号(2025年)所収
【その他】
・赤穂民報「周世の神護寺が老朽化で全壊」(2015年9月5日)
・赤穂市教育委員会「高雄地区の歴史文化」
・兵庫県立歴史博物館「名所めぐり:大避神社」
・『日本歴史地名大系』(平凡社)「周世郷」
・天台宗兵庫教区「寺院大図鑑:神護寺」
・コトバンク「神護寺」「神宮寺」(『日本大百科全書』『世界大百科事典』ほか)
・寺院統計サイト「全都道府県の『神護寺』」
・あこう情報館「赤穂高雄山」
・高雄山神護寺(京都)公式サイト「沿革史」/Wikipedia「神護寺」









