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記号論と中学生

記号論入試関連



高校になると現代文に苦しむことが多い。しかし、一見難しいことを言っているように見えて現代文のテーマはそれほど多くない。


高校生を苦しめるのは、「中学の頃から平易な文章によって触れているはずの具体例」と「抽象的な専門用語」が結びつかないことなのだろうと思う。


Willbe(特に難関進学コース)は、教科書の内容より抽象的な文章を扱って高校現代文の懸け橋となるような授業を心がけています。


今回は大学入試頻出テーマの1つである「記号論」を使ってザックリと話していこうと思います。





記号論あるある

中学生(高校受験的)具体例




記号論とは「言葉」の話です。


私達は他人と言葉を通してコミュニケーションを行っています。実は「記号(言語)」なしには生活できない状況なのです。


そもそも水を「水」と名前をつけたのは人間です。日本人です。水を飲みたい時に「水」という言葉がなければ「固くなくて、たまに空から降ってきていて、穴に溜まって大量に固まっている時もあって、太陽の光に反射してまぶしい時もあるやつ」とでもいうのでしょうか。面倒ですね笑


ただそれだけの話です。そう考えると「水」という言葉は便利です。



しかし、「水」という言葉も面倒なことを引き起こします。人によって「水」という言葉がイメージすることが同じではない時があります。






例えば、英語で「水」は”water”と言います。日本人は「水」は「冷たいモノ」だと思っています。しかし、英語の”water”には冷たいというイメージはありません。だから英語には”hot water””cold water”という言葉があります。日本人からすると「熱い水??」「いやいや、それは『お湯』『熱湯』だよね?」という話になって別の単語になります。


海外旅行をして日本人が水を頼むとぬるい水に不満をもらし、逆に日本の飲食店で欧米人が「冷たい水」を不思議そうに眺めているシーンをみたりできます。ぬるいコーラ!が存在することにもビックリです。


一方、中国では「湯」はスープという意味だそうです。日本人が思い浮かべるお湯は「白水」「茶水」とだとか様々な感じを使って表現するようです。あまり詳しくはないのですが、お客様に提供する「お湯」と自分たちが飲むお湯をつかいわけているのだとかなんだとか。。。(ここは適当なことを言っています。)




私は大学時代に(おそらく)インドネシア人と水の話をしていて、「水」と言われれば☝こいうイメージだと教えられたことがあります。私は水と言われれば、やはり上にあるような日本的な川のイメージを持ってしまいます。


私が上のイメージで水と話しているのに彼らは茶色い水をイメージします。もしかしたら”beautiful water”と言う言葉ですらお互いにズレていたのかもしれません。


日本と海外を比較していくと分かりやすいですが、日本語にもありますよね。魚の名前が地方によって変わったりします。赤穂周辺だと「しらす」「きびなご」「ちりめんじゃこ」なんて表現がありますが、赤穂の人は何て言うんでしたっけ?




「言葉」というものは、それぞれの地域で同じようなものに勝手に名前をつけただけということです。


記号論あるある。


記号(言葉)のない世界
  ↓
全人類が混乱します。
  ↓
だから本来よく分からないものに名前をつけます。だけど、名前をよくよく見ると文化や生まれ育ってきた背景によってズレがある。
  


自分の感情を伝える。
  ↓
感情や気持ちという複雑なものを言葉で伝えようとする必要はある。
  ↓
だけど、1つの表現に対して解釈が多用であるから、意図通りに言葉が伝わることはない。













高校現代文あるある記号論



中学では、こういったところまでの内容を書かれている文章はよく見かけます。では、高校ではどうなるのでしょう。


人間は知らないうちに、自分の国や文化を絶対的なものとして、自分と異なる文化や国を理解できなくなる。

他の国や文化を劣ったもの・誤ったものとして排除しようとする。



自分とは異なる文化を認めて新しい文化を生み出そうという動きが始まっているが、なかなか難しいよね。



問題なのは、歴史を振り返ると「記号/言葉」は私たちが勝手に作ったものであるということに自覚できていない点だ。「常識」を変えるのはなかなか難しいよね。


(オリエンタリズム)
(文化帝国主義)

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自分の考えや感情を伝えるために「言葉」を使って表現をします。しかし、同じ言葉でも「感じ方」が人によって違います。「言葉」だけではなく広い意味で「音/映像」も「記号/表現」と言うことが出来るでしょう。


文学の歴史で見てみると「比喩/擬人法」といった技術を生み出して自分の感情や考えを伝えようとしてきた。


しかし「近代的価値観」(近代的価値観についてはまた話します)の影響で「表現や記号を正しく理解すること」が受け取り側に求められた。筆者の意図とは違う解釈が許されないということが起こってきた。


今は表現を受け取った側の自由な解釈を許す時代にもなってきた。


逆に、受け取り側の恣意的な解釈という問題も生じてきている。異文化の表現を自文化では評価されないとモノとして排除する。



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ナショナリズム。

記号論の前提では「人が勝手に自分たちの意思で身勝手にきめたもの」として話が進むことがおおい。その意味では「国語」というものもかなり恣意的なものです。


1600年代には少なくともないはずの「国民」つまり「国家への帰属意識」は「国語の制定」によってつくられたということも出来る。


近代以前は「宗教/地域」に対する帰属意識でしかなく「〇〇王国」と言いながらも「億国への帰属意識」は希薄だった。少なくとも国と宗教であるならば宗教を優先していたケースは世界史をいればよく分かる。


言語教育を通じて「国民意識(ナショナリズム)」を作って行ったと言えるのです。


これも行き過ぎると問題が生じます。


(想像の共同体)




こういった内容になるのでしょうか?


ソシュールだとかシニフィエだとかラングだよか記号論は理解しにく難解な内容が多い様に思います。しかし、大雑把な流れとしては異常のようなことを言っていることが多いです。


ちなみに一見関係なさそうなコンピューターの世界でも当たり前のように「記号論」は登場してきます。「情報/プログラミング」とは「言葉」ですから、基本的な考え方としては「人間がかってに名前をつけただけ」という根本から出発していただければよいです。


話が細かく成ればなるほど、何をいっているか分からないことが多いので是非あるあるとして参考にしてくださいませ。


少しでも参考になれば幸いです。























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